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石ころ

「わたしの平安をあたえます」



「平安があなたがたにあるように」とよみがえりの主は言われた。主の平安を与えると約束して下さった。
しかし平安を得るためには差し出さなければならないものがある。それは、この世では主張して当然の権利を、犠牲にして得るものだと思う。

自分で守って来たものを差しだして、イエスさまにお任せするときに得るのが平安。
損害を覚悟して、言い訳をせずに恥を受ける覚悟して、人の口の責めを覚悟して、自らの計画を捨てる時に来るのがイエスの平安。

姉妹は言われた。此処に書かれていることは私のことだと・・この男は私だと・・。争った直後にこのみことばを示されてとても驚いたと。
みことばを備え「悔い改めよ」と教えて下さったのは聖霊、そうし主の平安を得よと・・。

どんなにこの世で正しい主張であっても、自分たちを守るためにどんなに必要な主張であっても、それを言い立てるものは聖いものではない、それは汚れたもの。

イエスさまを宿している者は汚れた者と住んではいけない。それに関わってはいけない。なぜなら、そのときイエスさまの「平安があるように」という命令に背くことになるから・・。
どうぞ賜るべき「平安の価値」を悟ることができますように。


主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。
主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。
わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜わるからです。その間に、悪者のためには穴が掘られます。(詩編94:11~13)

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