「風や湖までが言うことを聞くこの方はどういう方だろう」そんな弟子たちの驚きを乗せて、彼らはゲラサ人の地に着いたのです。
イエスさまが舟から上がられると、駆けつけたのは汚れた霊につかれた人でした。
でも、イエスさまと話して居るのは、人ではなく悪霊です。男は悪霊に支配されていて、自分の意志で行動する自由も、訴える言葉も持ってはいませんでした。
悪霊はイエスさまを神の子と知っており、その力を恐れているのです。イエスさまのことばは必ずそのように成ることを、彼らは人間以上によく知っているからです。
イエスさまが悪霊の願いを聞き入れ、豚に入ることを許されたことで豚は暴走し、ゲラサの人々はイエスさまの所に駆けつけてきました。
そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。(マルコ5:15)
彼らは何を恐れたのでしょうか、狂った人を見て恐ろしくなるのなら当然ですが、正気に返った人を見て恐怖を感じたのです。彼らの反応は異常です。本当なら正気に返った男を見て喜ぶべきです。
彼らの恐怖は、イエスさまに対するものでした。イエスさまの力に対して恐怖したのです。人が自分を守る方法は、相手を制御出来る力を持つことです。でもこのとうてい自分たちでは制御出来そうもない神の力を前にして、彼らは決断を迫られたのです。
それはその力に対して屈服するか、関わらないことで逃げるかです。
イエスさまに「此処を去って下さい」という言葉は、彼らの逃げる方法でした。
イエスさまを主と信仰すると言うことは、御前に屈服することです。
豚という財産の権利も、生きて行くためのすべての計画も、その主権をイエスさまにお任せすることです。
すべてはイエスさまのお言葉ひとつによって、みこころのままになるでしょう。イエスさまへの信頼によって、それを喜んで受け入れることが信仰です。
それがいやなら、ゲラサの人のように「私のもとから出て行って下さい。」と言えばよいのです。
ゲラサ人は、イエスさまは「自分たちの思い通りに成らない」と言うことを即座に悟りました。キリスト信仰は、人が神の力をコントロールするものではなく、神のコントロール下にすべてを委ねるものです。そういう意味で彼らの判断は正しかったのです。
イエスさまとは「どういうお方なのだろう」と、私にとってどういうお方であるのかと問うとき、この福音の時代に生きた私たちは、ゲラサの人々よりもずっと有利にそのことを知ることができます。
今は聖霊の助けによって、十字架のあがないを身をもって経験することができるからです。
自分の意志を取り戻した男の「お供をしたい」という信仰を、イエスさまは真っ正面に受け取り、もっと優れたことを導かれます。
家族と共に暮らして、自分で経験をしたイエスさまのわざを伝えるという導きです。
このゲラサ地方で救いを得たのは彼一人でした。だから、イエスさまは彼のためにわざわざ来てくださったのです。
イエスさまはこのように、ひとり一人を尋ねて下さいます。
私たちのところにもこのように来てくださったのです。そのチャンスを私たちは逃がさず、力あるみことばに身を委ねることを学びつつ、喜んでイエスさまに聞いているのです。
今、私がこのようにイエスさまのことをお話して居るのも、このゲラサの男と同じです。「誰も私の言葉なんか聞きはしない」と、以前は語るべき言葉を失っていたのですが、イエスさまがみことばの力を経験させてくださったことで、今その生きていることばを伝える喜びを味わっているのです。
「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなこと
をしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。(マルコ5:19~20)
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