石ころ

罪の赦しと神の義 (マタイ9章)




「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。(マタイ9:5~6)


創造されたばかりの人は完全で死も病もなかった。「食べたら必ず死ぬ」と言われた善悪の知識の木の実を食べる罪を犯した後、人に死も病も入り込んでしまったのだ。
それゆえ、造り主に罪を赦されることで死や病から解放されることは分かるけれど・・。

これが世に在る間の限定された赦しなのか・・、永遠のいのちに至る赦しなのかわからなかった。しかし「罪を赦す」と書かれてあるので永遠に至る赦しなら、十字架の意味は何なのかと・・思い巡らせていた。

「恵みだなぁ」とひとり声に出すことが日に何度もある。最初は「なぜ良くしてくださるのか・・」考えてみたりもしたけれど、今ではそれは神の勝手なんだと解釈している。
かといってそれは人間のような気まぐれではなく、主はどこまでも真実なお方なので、ただで受けることにも平安はある。

神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。(ローマ9:15)

 しかし、罪には必ずあがないの代価が支払われなくてはならないのだから、十字架抜きでは筋が通らないことになる。神の義が成り立たない。「罪から来る報酬は死」であり、「永遠のいのち」は十字架を通したキリスト・イエスに拠ることのはず・・。

だからどの時代のことであっても、御父の権威の下に在る御子イエスの十字架によって、赦されることには間違いがないのだと思う。
ただ、主は時間の制限の中にはなく、神様がご計画された時に遡って十字架のあがないが適用されるのであろう。主のことばは必ず成るのだから・・。

「あろう・・」とか、「思う・・」になってしまったけれど、明日も明後日も命のある限り教わり続け、聴き続ける中で確かなことを知るだろう。それは楽してわくわくする希望である。

キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。(Ⅰテモテ2:6)

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