イエス様は二人の強盗と一緒に処刑された。
このことはイエス・キリストがただの罪人となられたことを現している。此処には欠片も神のキリストという特別扱いはなかったから・・。
だからこそ、人は自分自身を十字架のイエス様と重ねることができるのだ。イエス様が完全に人となって下さったからである。
驚くべき事に、十字架刑という激しい苦痛の修羅場で、罪の報いを受けている強盗の一人がイエス様を証しして礼拝した。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。(ルカ23:39~42)
礼拝に相応しい人とは、罪の自覚を持っている者である。助けを受けるに相応しい人とは、自分の弱さを悲しんでいる者である。
だから、強盗であった彼はイエス様を礼拝するに相応しかった。
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:43)
イエス様も激しい苦痛の中で彼の礼拝を受け入れてくださった。それは、修羅場にぽっかりと開いた神の国の入り口、
一転して刑場は礼拝の場所となり、罪人の祈りとイエス様の赦しのみことばが、世のすべてから切り離されて永遠へとつながったのだ。
既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。(ルカ23:44~45)
至聖所の幕が裂かれて、神の国への道が開かれた時、一番に入って行ったのが強盗だった。まさに後の者が先になったのだ。
律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。(ローマ5:20)
長い信仰生活には色々な出来事がある。しかし、それがどんな修羅場であったとしても、礼拝者には静かにイエス様と語ることが赦されてあり、いかなる時もそれは主の準備してくださった脱出の道である。
たとえ罪の報いを受けている時であっても、そのままの礼拝を受け入れてくださるイエス・キリストである。
強盗とは、神のものを強奪していた私のことでもある。
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