石ころ

「思い」 (ヨハネ13章)





 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」(ヨハネ13:8)

ペテロは後に主を「知らない」と三度言う、「関係ない」と言ったのだ。イエス様が洗ってくださったのはこの言葉であった。

イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ13:7)

 サタンはまず、ユダの「思い」に取り憑いた。彼の悲劇はイエス様が足を洗ってくださっても、頑なに「思い」を捨てなかったことだ。
彼の思いの膨らんで止めることができないことを知られた主は、「霊の激動を感じ・・」、「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」と許可された。
サタンも主の許しの範囲でしか働けないのだから・・。(ヨブ記)

私たちは良いこと悪いこと織り交ぜて、色々な「思い」の中で日々生きている。それが古い肉を持って世に生きることであるけれど、
聖書にはこのように書かれている。主の光の中に住む者が、執拗に罪を愛することはない。
「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」(エペソ4:26)

その「思い」を祈りの中で主にさらけ出すなら、それはきよめられて「赦し」となり、私たちの記憶から去って行く。
「思い」というパン種を温め続けるならそれはどんどん膨らんで、主が洗ってくださることを拒むまでになり、主の許しを得て光の中から外の闇に去って行くことになる。


 互いに祈ること足を洗い合うことは、今起こっている事柄だけではなく先の備えのための祈りでもあった。
怒りの思いが来た時、「ああ、もう先に赦していたっけ・・」そのような関係こそは互いの守りであり、まさしくイエス様の模範に従うことであると思った。

あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。(ヨハネ15:3)
このように主に宣言されている者の関係において、私たちはいつも守られており、今まで誰も経験をしたことのない新しい愛は力強いものなのだと思う・・。
私たちがキリストの光の中に在る限り・・。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34~35)

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