石ころ

ひとつのこと (ヨハネ3章)





 パリサイ人であるニコデモが「私たちはあなたの行うしるしによって、あなたが神の御子であることを知っています。」と言っている。
このことによって、パリサイ人がキリストを知っていたことがわかる。知った上で彼らは、その行いの悪さによって、イエス様を受け入れることができなかったのだ。

悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。(ヨハネ3:20~21)


人は、都合が悪いときは知って居ても知らないふり、気付いていても気付かぬふり、見えていても見ないふりができる。
大概のことは赦しの中にあるけれど、

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネ3:36)

証しされる聖霊に逆らい続け、ひとり子を十字架にまで差し出してくださった神様の愛を信じないことは、神の怒りがその人にとどまるとある。それは造り主の執着とも思えること・・愛が届かないことへ神様の怒りである。

「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」(ヤコブ4:5)


 新しく生まれるには死ぬことが必要であり、その死とはみことばの前で死ぬことである。
すべての不都合なことや賢い言葉を葬って、みことばに留まっていることである。
死んだ者は動けないのだから、新しいいのちを注いでくださるまでまで待つことになるけれど・・、このいのちは上からくるものだから待つしかないのである。

だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:13~15)


ニコデモはこのみことばに留まって、思い巡らせていたのだ。そうして、十字架のイエス様が希望の光であることを悟った。
だから、弟子さえ逃げた状況であったのに命がけでイエス様を葬る働きをした。彼はこの時新しく生まれ永遠のいのちを得て、語られたみことばが彼に成就した。
バプテスマのヨハネもイエス様を証してその役割を完成した。
ただ、みことばに留まり続けるなら、聖霊が成すべき事を導いてくださる。それは多くのことではなくひとつだけかも知れないけれど・・。


イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。(ヨハネ3:5)

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