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石ころ

メッセージを聞いて

 

 山上の垂訓を自分流にレベルを落とし、その土台の上に、自分という建物を築き上げて行くようなクリスチャン人生はなんと罪深いことかと思った。その建物が金であるとか、藁であるとかさえそれほどの意味はないと教わった。Ⅰコリント3:12からの記事は、金の建物を建てると焼けないで残るというような「三匹の子豚」の話ではないと・・。

 大切なのは建物ではなく土台であり、土台はキリスト信仰である。「行ない」という言葉への勘違い、行えるという錯覚、いくらかでも行えればとみことばを差し引いて平気な信仰。そこには、決してみことばを行うことの出来ない私たちのために、神の御子が十字架にかかって救ってくださったことへの信仰はない。

神が住まわれるのは建てた物にではなく「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊が宿っておられる。誰かが神の神殿を壊すなら、神がその人を滅ぼされる」のであり、その約束に安息するべきである。

 聖書をきちんと読みとることは簡単ではない。いろいろなこの世の教えが刷り込まれていてそれを阻むから。的はずれな信仰生活から守られるために、みことばの正しい導きを得ることこそもっとも大切な事だと思う。
 
 結局この世では「私は、主イエスと共に生きました。終わり」で良いのだと思った。何をしたとか、何をしなかったとかにどれほどの意味があろうか。主の十字架と復活にいったい何を付け加える必要があるのだろうと・・。私に何か良いものがあるとすれば主があらかじめ備えて下さっただけであり、私のもろもろの罪、弱さ、愚かさはすでにイエス・キリストによって十字架であがなわれている。その土台は永遠に不動であり、もうすべては完成しているのだから。

 そこで私たちはこの世で主を楽しみ喜び、感謝と交わりに専念することになる。この世の歩み、重い荷物はすべて主と共に負う「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い。」そのみ約束が真実であることを、問題にぶつかる度折々に経験しつつみことばへの信頼を深めていく。クリスチャン人生はなんと楽しいことだろう!ハレルヤ!!

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