教会に対する私の痛みは、「主の祈り」が聖書から切り離され、救いの順序が差し替えられて、十字架が否定されている祈りが繰り返し祈られていることにある。
なぜ気づかないのか・・なぜいつまでも覆いがかけられたままなのか・・、実に不思議である。
イエスさまが教えてくださった祈り、マタイ6章
天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
しかし、
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」この箇所がすり替えられて、
「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」
とされ順序が逆転したものを唱えているのである。
すべて赦しは十字架によることであり、私たちが人を赦すことによって赦されるのではない。もし、そうであったらキリストは十字架にかかる必要がないのである。
差し替えた主の祈りは人の行いによっており、福音の否定のような大きな誤りである。
キリストの十字架のあがないによって、人はその信仰によって赦されるのである。
そのように無条件に赦された者が神の恵みのゆえに、人を赦すことが出来るように成ってゆく。
救いは取引ではなく、一方的な神の恵みである。
不思議に思うのは、差し替えられていることにさえ気づかなかったり、気づいても何とも思わないで、聖書から切り出され中身がすり替えられたものを祈り続けていることである。
此処に働いているものは何なのだろう・・。
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のしてんてん
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