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石ころ

信仰は強いられない

 「天声人語」にアメリカのある教会が「コーランを燃やせ」と呼びかけているということについて書いておられた。
コーランであれ、聖書であれそれを燃やすという行為には、人の意志を変えることにおいてなんの意味もないと思う。

この記事を読んでいて、聖書の使徒行伝19章を思い出した。
魔術師たちが多くの書物を焼いたという記事。しかしこのことは彼らが救いを得て自由にされ、自ら魔術を否定し、その証として焼いたのであり誰に強いられてしたことでもない。


 神様は、御子を十字架にかけるほどの覚悟を持って、人間に自由意志をお与えになったのであり、誰であれそれを奪い、力ずくで信仰を強制しようなどとは、聖書を知っている者にとってあまりにも愚かな行為ではないかと思う。こういう行為にイエスの名がつかわれる事は許せない。

パウロは偶像があふれるアテネで、「知られない神に」という祭壇を見つけて、彼らにまだ知られない方イエスを伝えた。
聖霊に導かれての知恵だと思う、宣教は人の計画や思いではできない。導く方によらなくてはどうして霊のことを、人間の口で語ることが出来るだろう。どうしてそれが伝わるだろう。まして、憎しみから発したことをもって、どうして愛である神様を伝えることなど出来るだろう。悲しいなぁ・・


「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままではいけません。
悪魔に機会を与えないようにしなさい。」エペソ4:26~27

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