石ころ

パウロの喜び(ピリピ1章)

 

私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、
また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。(13~14)

 

逮捕されて牢に入れられるよりは、自由が守られて福音を伝えることの方が良いことで証になるはずである。牢に居ることが知れ渡るよりは、隠されているほうが躓きにならないはずである。

 

しかし、その状況によって、信仰の兄弟の大多数に確信が与えられ、恐れから解放されたとある。彼らは、それらの出来事の中にキリストの臨在を悟ったのは、聖霊の導きによることである。

 

パウロの完全とも見える器が砕かれて、その傷が用いられるのは、謙遜の中に内住されるキリストが輝き出るためである。
それは彼に永遠の救いをもたらせ、備えられた福音が世に輝き出るためである。今も私たちは彼のたまものによって、キリストを知る幸いを得ている。

 

神の方法はいつも人の考えとは真逆で、弱さの中に、不遇の中に、不自由の中に、愚かさの中に御力を現わされる。
それによって人の力ではないことが明らかにされ、神のわざが輝き出るのだ。それらを通して主を知った時、自分のことを心配することなく、ただ主を喜んで福音は宣べ伝えられるのである。

 

人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。
一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、
他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。(15~17)

 

それらがキリストを愛することから出ているか、人の計算から出ているか・・それを探ることは、苦しみを負うことになる。それを私たちが知る必要はないのだが、それでも、キリストのからだの一部が病めば、健全な部分も痛みを負うことは事実である。

 

すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。(18)

 

すべてはキリストの許しの中にあることと、ただ、キリストが伝えられることを喜ぶなら、神の良きご計画のゆえに、生きて働かれるキリストに信頼して安息することができるのだ。

 

というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。(19)

 

聖霊はキリスト者の祈りと叫びのうちにもいてくださり、その信仰を導いて、慰めと力を満たしてくださる。また、救いの実を見せて喜びをたまわるのだ。
パウロは牢に在っても、祈りによって教会と共に働き、キリストがあがめられる喜びを味わっていた。

 

それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。(20)

 

パウロの身は完全な捧げものとなって、神の御前にすでに差し出されている。それは、キリストの御名があがめられるためであって、それがパウロの唯一の願いだからである。

 

「良い時も、最悪と思える状況にあっても、大胆にキリストの福音が宣べ伝えられ、みことばのうちに臨在される聖霊によって、神の御名があがめられますように。混迷の世にこそ、神のご計画の中に在る大いなる収穫を祈りつつ、望みを持って備ることができますように」


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