石ころ

イエス様の質問




 パリサイ人はイエス様に向かって「何の権威によって・・」と質問をしたとき、その答えは「ヨハネはどこから来たのですか」でした。
パリサイ人は議論を重ねて「知りません」と答えました。議論を重ねるまでもなくわかっていることでした。此処に罪の原点があります。
それはアベルを殺した後のカインの言葉と同じでした。
それは、「神の権威とは何かを知るに値しない」ということです。私たちは神さまの前に「知りません」ではなく本音で答える者でありたいでものです。

今週のメッセージから。


 不思議だけれど、先週私は同じ事を考えて居た。神様の前に「私は知らない」と、とぼける罪について・・、その偽りが何処から出てくるのかなどと考えさせられていた。
知らないことにしておくと、波風をたてることなくやり過ごすことができる。自分の信仰とも真っ正面から向き合うことなく、取りあえずの現状維持に逃れられるので、知って居ながら知らないそぶり・・。それは何時だって卑怯な方法である。

イエス様は、サマリヤの女の質問には惜しげもなく奥義を語ってくださった。それは、彼女の中に覚悟があったからである。恥をかなぐり捨ててイエス様を伝えに走ったのだから・・。

また、ペテロがヨハネについてした質問には、
「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:22)
そうして、ペテロは死ぬまでイエス様に従った。

イエス様に問うには、神の権威に対する覚悟が要る。私が何者だから答えてくださるのではなく、私にある覚悟によって答えてくださる。
従う気のない者に答えても、それは不従順の罪が増し加わるだけなのだ。だから、質問で返される「あなたにその覚悟はあるのですか」と・・

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コメント一覧

ムベ
まこさんコメント感謝します
イエス様は、だっこをせがむ幼子にさえ、応えてくださるお方だと思います。
私がいつもそうですが、背負って運んでくださっています。
ただ、幼子のように身を任せ、何処へ行くかを任せる覚悟がないと・・それだけですね。
ハレルヤです。
まこ
アーメン。求めない者、問わない者、縋らない者、頼らない者には
御姿も奥義も見せてはくださらないのがイエス様。
それでいて、神は沈黙せり、とは、甚だ愚か。
求める対象を間違えている。
イエス様ご自身を求める者に応えられなかったためしがないと思います。
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