石ころ

十字架で書く


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学のない者(義務教育も満足に受けていない)が、聖書を読んで気付かされるままに、その嬉しさをまんま書き綴り、誰にも読まれるままにしている・・。それはわきまえのない、愚かさかも知れない。

聖書の権威をなんと心得ているのか・・。何の権利があってお前は自分勝手に読み解いているのか・・そうして、それを恐れもなく語るのかと・・。


聖書の理解は変わる(それは深まってとも言えるのだけれど)こともあり、行動にも揺らや迷いの記録がそのままに残る。
何一つ正しく確かにものなどないではないのではないか・・。
そんな自問自答がないわけではないけれど、それはむか~し食べた賢くするという木の実の影響だと思っている。


 聖書の中には、神の愛と厳しさがあるけれど、ひとりみことばの前に居るとき、染みてくるのは赦しと恵み。
姦淫の女に対するおことばのように、イエス様の赦しと備えがじわりと染みるばかり・・。だから、その温かさを・・その備えの完全を伝えたいと・・僭越なことを願ってしまう。


 自分の十字架を負うと言う事は、恥辱の丸裸を人の目の高さに曝す事だと知った。
イエス様がそのように十字架でさらし者になってくださったことを教わった時、その言葉は私の内に突き刺さり、私の恐れを裂き、包み隠していた衣は地に落ちた。


「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」(創世記31:29)
ヤコブが、舅ラバンのもとを妻子や財産をもって逃げるように去った時、神はラバンにこのように告げて、ヤコブを守られた。
彼が正しかったからではなく、ただ、神のご計画のうちにヤコブは居たからである。

こう言ってくださる主に身を寄せて私は平安を得る。罪に問う敵に対して怯える良心を、説得する必要なんかない。みことばを思い出すだけ・・。
どのような事柄に対しても、背を伸ばし平安の内にそれらを受けて立つ事が出来る。
弱さ故に後ろめたい思いの中であっても、主に赦されている者として、みことばを盾にして立って居る事が出来る。


 裸の恥の中で主を仰ぐ。その裸にも主の愛と赦しの記録がすべてが刻まれているから・・。間違いも失敗も愚かささえも、そこでイエス様に寄り頼んで生きたことは、私の歴史に甘く残っているもの。
どうしておめおめと地に埋めてしまうことなどできるだろう・・。

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