石ころ

「ホサナ、ホサナ」のクリスマス マルコ11章(Ⅰ)


 

 さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して言われた。
「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。
もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」


イエスさまの必要は一から十まで教えられないと人は何も分からない。今日、一から十まで聴かないと今日何も出来ない。人のしていることを真似ることが出来ても、それはイエスさまとは何の関係もないことである。

弟子に「向こうの村に入ってすぐ」と場所を教え、「繋がれたロバの子」と示し、「それをほどいて引いてきなさい。」と命じられた。
また、「なぜそんなことをするのか」と言う言葉を聞くと、「主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。」と答えるべき言葉を教えられた。

弟子は、すべてが聞いたお言葉通りであることを見たので、恐れずに命じられたことが出来、教えられたとおりにみことばが話せるのである。きちんと詳細に聞いていなければ、ろばの子を解く前に言い訳を初めてしまうのだ。そこに神の権威はない。

 季節でもないのにいちじくが実を結び、イエスさまの空腹を満たすことができるのは、聴いたみことばを信仰によって話すことから始まる。
「神を信じなさい」と言われたイエス・キリストの信仰は、御父の御旨のままに十字架を負われた信仰である。

キリストの信仰によって山は動き、役立たずのいちじくは枯れる。
キリスト者が、イエスさまの信仰を受けて聴いたままに語り、いつも必要を神に尋ね求めるなら、遠くから見に来られるイエスさまにグッドタイミングの実を付けるだろう。
弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください。」とお願いした。
しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」(ヨハネ4:31~32)


多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。
そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。 祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」

 
 この光景は私にはクリスマスの盛り上がりと重なる。煌びやかなイルミネーションと音楽・・飾り立てられたツリーにご馳走・・。
でも、イエスさまは今日何を語っておられるのか。私たちは「聞いたお言葉の通りだ!」と、みことばを目にするまで聴いているのだろうか・・。
人は「ホサナ、ホサナ」と喜び迎え、「十字架につけろ」とも叫ぶ。

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