イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。
そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。(ルカ17:1~2)
「つまずきは避けられない。」とある。確かにつまずく者は自分の不信仰や、心の歪みによってもつまずく。それは避けられないことなのだ。
「わたしにつまずかない人は幸いである。」(ルカ7:23)とイエス様は言われる。パリサイ人や律法学者たちは福音につまずいた。
しかし、人をつまずかせる者は不幸であるとある。自分の幸せのためにも、つまずかせないように気を付けなさいということ。
「赦しなさい」は主の命令であり従わないことは不信仰である。不信仰が暴露される前に二度と浮かんでこないようにされて、海に放り込まれた方がましであると・・。
赦せない心は、人を受け入れることが出来ずにつまずかせてしまうのだろう。それは両方にとって悲劇であり、何よりも主の悲しみである。
あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカ17:10)
「戒めなさい」といわれる。そうして悔い改めたら1日に7回でも赦しなさいと・・。これは一々数えることでもないので、何回でも赦すということなのだろう。
私にはこのことは経験しているから良く分かる。主に何度も「ごめんなさい」と赦しを乞う者であり、赦されなかったことは一度もないから。
何度も戒め何回も赦されることは、まるで子育てのようである。そうようにして親は子供を育てて行くものだから、やはりこのことは父母の愛を現している。
主に在って赦さないなら主の家族ではない。「気を付けなさい」といわれるのはそのこと。
しかし、人は言われて直ぐに悔い改める者ばかりではなくそこにはタイムラグがあって、戒めた後で期待をして待つことが必要となる。
主もみことばを語ってどれほど待って居てくださることだろう。
みこころを語っても変わらないことは、誰でもない主の忍耐となる。私たちも主からその忍耐を頂かなければならない。
こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。(Ⅱペテロ1:7)
使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。(ルカ17:5~6)
お弟子が「信仰を増してください」と願ったのはもっともだ。無限に赦し続けることを考えれば出来る事ではないと思えるから。
しかし、主は辛子種ほどの信仰でも、神より賜る力によってはるかに大きな事をなし得ると言われた。
そう、信仰は小さなもので良い。その日その時の小さな事柄の中で、みことばに「アーメン」と言うならすべてを成し遂げる力は主から賜る。
だから、それを成したとて誇る必要はなく、すべては主に賜ったに過ぎないことであって、なを主に仕えて自分の働きを続けなさいと言われる。
命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:9~10)
アーメン
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