石ころ

証しするのは聖霊による(マルコ1章)





イエスさまは人となって、ヨハネのバプテスマを受られ、御霊が下って力を受けられると、御霊はイエスさまを荒野に導き40日間、サタンの誘惑を受けられた。
バプテスマのヨハネが死んだ後、イエスさまは神の福音を宣べて言われた。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。
「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」
イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。(マルコ1:23~25)


イエスさまが神の子であることは、サタンも悪霊も汚れた霊も知っている。
イエスさまは「黙れ」と言われた。彼らは許しがなければ何もできない。イエスさまは、彼らがご自身を証しすることは許されない。

イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をいやし、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。(マルコ1:34)

癒された者は、経験によってイエスさまを知る。しかし、「神の子」とイエスさまを証しすることは、聖霊の導きに拠り、イエスさまの許しの中ですることである。

さて、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私をきよくしていただけます。」
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」
すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。(マルコ1:40~42)


彼は「お心一つで」と、イエスさまに委ねて願っている。その心をイエスさまは深くあわれみ「わたしの心だ」と癒してくださった。
此処には信頼関係があり、イエスさまの愛に溢れたいやしが成された。この彼にとって、すべてに勝る大切は、イエスさまから受けた憐れみであり、癒しを通してたまわった関係である。

そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。そのとき彼にこう言われた。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。」
ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中に入ることができず、町はずれの寂しい所におられた。(マルコ1:43.45)


しかし彼は癒された後、イエスさまのお心を軽んじ、お言葉に聞き従わなかった。彼にとっては癒しだけがすべてだったのだろう。
言いふらす心が何処にあったとしても、イエスさまを重んじるなら、聴いた言葉を反芻し、言われた通りにお心を大切にして、イエスさまとの信頼関係に留まるものである。

もっとも大切なことは、イエスさまの「お心」である。すばらしい証しも、初めから終わりまで知って居られる方に拠らないと、イエスさまの邪魔をすることになる。
誰もイエスさま以上に愛することはできないからである。

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