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石ころ

この世をも顧みて下さる



「イエスがはいって行かれると、村でも町でもでも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。」(マルコ6:56)

イエスさまは、ご自身にふれた者をみな癒された。必ず死ぬべき体さえも、求めに従って全員を癒された。彼らの信仰はわからないけれど、少なくともその時彼らは主のわざを信じていた。

「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなるでしょう。それに遠くから来ている人もいます。」(マルコ8:2~3)

空腹を心配してくださる主は、此処でも七個のパンを用いて群衆を養われた。パンは12かごにあふれるほど残ったのだ・・それは主の豊かさを証している。
イエスさまはこの世の必要をもご存じで、私たちを常に心配していて下さることがわかる。

しかし、
「そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。」(マルコ6:5~6)

そのようなイエスさまも、「知っている」という者の不信仰の故に、なんのわざも行えないということがある。
もし、私たちの暮らしの中で必要が満たされないという困難があるなら、「私は主をよく知らないのではないか・・」と、不信仰の赦しを求めるべきだと思った。

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コメント一覧

石ころ
ズレているとは思いません
みっこさんの苦悩をいくらか・・感じています。
「知らないのではないか」という謙虚さのなかに、救いがあるのだと思います。

永遠への思いが、キリストへの渇きにつながるのですが・・
その思いを人に与えるのは、神なんですよね。

みっこ
ちょっとズレていたらすみません
「知っている」まま、スケーティングライフのまま人生を終わらせてしまう人もいるでしょう。この世には困難を器用に避け、浅く生きてしまう人もいます。でも、それはさびしいというか、もったいない生き方のように感じます。
「知らないのではないか?」という自己への問い、ほんとうのところで救われたいという気持ちを持ち続けることは、いつも大切で、苦悩することに意味を見出しながら生きていきたいと私は思っています。
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