石ころ

みことばいつも新しい (ヨブ記) 




 主に在る姉妹と、数日間に渡ってヨブ記を通してお交わりを楽しんだ。
もう十分知っているはずの箇所だけれど、それは今日初めて出会ったかのような疑問から始まった。

ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。

主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」(ヨブ記1:1、1:8)

神はなぜこれほどにヨブの正しさをクローズアップされたのだろう・・このことに疑問に感じた。神も認める彼の正しさ・・、
しかし「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)とも書かれてあるではないか・・。
ヨブの正しさは神の義に相当するものではなかったから、ヨブ記があるのではないか・・。この神の義と人の正しさというものの乖離はなにだろう・・

 神がわざわざサタンを煽って成し遂げようとされたことは、ヨブを完全な者とするためであろうと考えられる。
ご自身の真実を偽ることが出来ない神は、故にいかなるときにも愛するお方であるから・・。
ただ、神も認めるヨブの正しい信仰は、彼に幸いの平安の実を結ぶものではなかった。

こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。

私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。(ヨブ記1:5、3:25)

ヨブが大切な息子たちを神の裁きから守ろうと、心の底ではいつもおびえていたことがわかる。

 人の平安は正しい行いからは得られない。そのことによって人はむしろ生きようと、自分自身を、自分自身のものを守ろうともがくことになる・・。
平安は死を通してのみ得られるものだから、ヨブのたましいは死ななければならなかった。

だから、神はヨブが守ろうとしたものをすべて剥ぎ取り、彼をそのことから解放された。
彼の栄光がすべて崩されることによって、彼は自分自身をさらけ出して神と語った。
サタンも友も神の備えであり、友に向かって訴えたことは神に向かって語ったことであり、ヨブは取りなしのイエスさまを求めて叫び、神も知っておられる自分の正しさを訴えた。丸裸にされて真実な言葉で希望を語り、絶望も語った。

 「死を待ち望んでも、死は来ない。」(ヨブ記3:21)
魂の自殺はない。衆目の前で神ご自身がご自分の評判を投げうつ熱心によって、これを得させてくださるのだから・・。

すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」(ヨブ記2:9)


 神の義とは、御前にまったく安息することではないか・・。
今私たちは、キリストの内に隠され、キリストに覆われて義と認められているのだから、私たちは魂の死を無傷で得ている。そこではもう「私」は生きて居らず、生きているのはキリストであるから・・
ただ、そこに留まることは人の選択に任されている。

神は愛だから、ヨブの完成のために取り上げられたものは、さらに良いものをもって返さ
れた。

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。(ヨブ記42:5)

与えられたすべての良いものにまさるのはこのことであると思う。主を知ることほどの幸いはないのだから・・。人にとって造り主である神に愛される経験ほどのものは他にないのだから・・。
ヨブほど神に愛された人はいない。


あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(1ペテロ5:10)

話し終えて姉妹と感動のため息、「ああ、ヨブ記、美味しかったね!」

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