先程、主人が言っていた言葉
「地震で高速が通行止めになったけれど、さくらたちが無事に戻れて良かったなぁ。自分たちのことだけで喜んで良いのかどうかわからんけれど・・」
聖書には「わたしは、自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と書いてある。
主の憐れみを受けたのだと、私は単純に主に感謝をした。
幼子が乳を含ませてもらった時、誰のことも思わず夢中になって腹いっぱい飲むように、主の憐れみ、恵みを頂いた時、誰のことも眼中になく夢中になって受ける。私はそういう立場にいる者。すべてを支配し、すべての人を考えてくださるのは主のなさることで私の分ではない。私には何も出来ないから。
私は、主が含ませてくださった乳の甘さを記憶しておく。その味を覚えているから成長できる。沈黙の時間があっても、思い出がたんまり刻まれているから、いつまでも母の恵みの味を反芻して楽しむことができる。それが、ひとりぼっちのときの支えともなる。
ピラトは、イエスさまが正しいお方であると承知していたが、人を恐れて十字架に引き渡したように、ヘロデもバプテスマのヨハネを人を恐れて、心を痛めながらも首をはねた。
彼らはその場で最高の権力を持っているにもかかわらず、人を恐れるあまり自分の信じたようには行動できなかった。
ひとりで、主を選び取るべき時がある。誰にも聞くことができないことがあり、唯みことばに聞いて、ひとりで、目に見えない聖霊の導きに従う時、主との交わりの記憶が背中を押してくれる。主の日々の細やかな恵みは、私の信仰を導く大切な宝物だから、このことは誰にも譲れない。決して遠慮なんかしない。
25年以上そのように導かれてきたのだから、御国に行くまで主は、この年寄りに甘い乳を含ませてくださるだろう。なんということ!なんという恵みだろう!
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