石ころ

あなたがたの日々が長く続くように(申命記22章)

 

あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、見ぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところに、それを必ず連れ戻さなければならない。
もしその同族の者が近くの者ではなく、あなたがその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が捜しに来るまであなたのところに置き、それから彼に返しなさい。(1~2)

 

「同じ民族なのだから互いに助け合いましょう。」というだけのことではなく、この命令は自分よりもずっと豊かな人を助けることもあり、「あの人よりはマシ」と思うことが救いになっている人の牛であったりもするだろう。
助けるのは、それが神の愛される民のものだからであり、主を恐れて従順する信仰に拠ることである。

 

女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の衣服を着てはならない。このようなことをする者はみな、あなたの神、主が忌み嫌われる。(5)

 

テレビでこのようなタレントを見るとき、その美しさや、面白さや、話術にいつの間にか引き込まれていることがある。しかし、そこに働く霊が神ではないことをみことばから知っている。

 

人は誰も、神が造られたように生きることは出来ない。罪が入り込んで造られた時の完全なさまを、不完全なものにしてしまったからである。
自然が不自然に歪められ、主が嫌われ禁じられたものを愛する性質もあり、欠けの内容はそれぞれであっても、自分でどうにもならない弱さを持ったのである。

またそれを人の善悪によって正当化しているが、記憶の底には神があり、呻きつつ偶像を作り出して身を避けるのである。何一つ神の義に似てあらぬものを・・。

 

やがて天において、キリスト者には新しく罪の無いからだが待っている。神の救いは、キリストの御わざによって真っ新な霊のからだを準備してくださったのである。

 

今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:22~23)

 

たまたま道で木の上か地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵があり、母鳥がひなか卵を抱いている場合、その母鳥を子と一緒に捕ってはならない。
必ず母鳥を去らせて、子を捕らなければならない。それは、あなたが幸せになり、あなたの日々が長く続くようになるためである。(6~7)

 

天に永遠のいのちを備えて下さる主は、この世の必要も顧みて知恵を与えてくださる。母鳥がいなくては子は育たない。

神が備えてくださった種を貪欲によって絶やしてはならない。それらは将来への備えであり、先の望みを貪ってはならないのだ。信頼するなら主は豊かに施すお方である。

 

みことばに従順することが、将来を危うくするように思うことがある。人はまだ見てもいない迫害を思い描いて恐れるが、聖霊は信頼して待つ者にたまわった恵みを思い出させて、勇気と安息をたまわるのである。

 

主は信じる者の完全な父となり、愛する母ともなっていて下さる。主に在れば必ず生きるが、目の前の苦難に脅されてみことばを否み、主から切り離されたら世に堕ちる。
実は、その苦難の中で見ているのは、主の背に乗せられて運ばれている時である。主の背の高みから見ている景色に過ぎないのである。

 

あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。(イザヤ46:4)


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