そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。(6~7)
アダムたちが賢くなって、自分の身を見て裸を恥じた。彼らはその時「恥」を知り「隠す」という知恵を身に付けて行ったのだ。
そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」
彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」(8~10)
それまでの、アダムと神の間には完全な信頼関係があり、すべてを恥じる必要はなく、善も悪も神の御前に隠れてはいなかった。
しかし、アダムが神に造られたままの姿を恥と判断したとき、神の作品への完全な信頼は損なわれ、それ以来、人は神に在る平安を失って、御許から離れて行った。
自分のありのままの姿を見て、神から逃げ隠れする私たちに、今も「あなたはどこにいるのか。」と呼びかけ、裸で駆けて来るのを待っていてくださる。
神の愛は、ご自分の作品のどんな姿も受け入れてくださる。神は作者なので、たとえ罪が入り込んですっかり姿を変えてしまっていても、それを新しくするための救いを用意していてくださる。
人は、神のもとを離れた時に死ぬのだ。完全な愛の欠落による飢えと、恥を責めたてる自他に対する遣り繰りに縛られて、神に造られたいのちのままに生きられなくなるからである。
放蕩息子が帰って来たとき、父は息子の罪を問いたださなかった。父にとっては帰って来たことがすべてだったからである。最大の罪が離れて行ったことだったからである。