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石ころ

イエスさまの怒り



パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」
イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。
『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』(マルコ7:5~7)


 手を洗って食事をすることは日本人ではごく当たり前のことである。どうしてそれが悪いのか・・パリサイ人は宗教に熱心で、十分の一を捧げ、絶えず自制して過ごし、それが人生の殆どを占めていた。

それは手を洗うことが悪い事なのではなくて、それを神の言葉に付け加え同格に扱ったことにイエスさまの怒りがあるのだ。
聖なる神の言葉に、次々と人の賢い言葉、良いと思う言葉を重ねていったパリサイ人。

イエスさまは、イザヤの言葉を「そのとおり」と肯定された。
それは、みことばに人の言葉を付け加えた者の礼拝の全否定である。

 「清濁併せ飲む」と言う言葉があるけれど、
聖いものを分ける旧約聖書の「聖絶」は、すべてを殺す凄絶な殺戮である。それを読むとき人は嫌悪感を抱く。
しかし今、「拝んでも無駄である」といわれる主の言葉は、もっと恐ろしい滅びであって、それは永遠の滅びであり、聖絶された人の数よりも遙かに多いことだろう・・。しかし、人はなぜかそのことには思いが至らず恐怖することもない。

聖なる神の言葉に人の言葉を付け加えることは、その言葉の内容とは無関係に汚れであり罪である。
どのような言葉も人より出たものはすべて汚れている。聖いものは神より発したものだけであり、それを人が適切か良いかなどと判断することはできない。
人には神の御思いを知ることは出来ないから、聖霊の導きによって語る他なく人の判断は汚れを持ち込むことでしかない。

「人から出るもの、これが、人を汚すのです。 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7:20~23)

神の言葉を空文にする、それは今では十字架の完成度を人が量ることだと思える。
「平安があるように」とすべての必要を備えられ、信じるだけで完成された十字架に、次々と言葉を付け加えて「平安」を奪ってゆくことをイエスは怒られる。


ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、
生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。(Ⅰペテロ2:1~2)

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