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石ころ

杖だけ持って



それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。
また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。
また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行ってはいけません。
くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」
また、彼らに言われた。「どこででも一軒の家にはいったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。(マルコ6:6~10)


 遣わされた弟子たちは、遣わされるための特別な教育も訓練も受けては居なかった。聖霊のバプテスマもまだ受けていなかった。長所も短所もあるままに・・。
けれども彼らはイエスさまと一緒に居た。遣わされるための大切な条件はイエスさまと一緒に居たという事実だけ。

遣わされた者が常に手放せないのは、主に在ることを証しする一本の杖、アブラハムが故郷を出るとき持って出た杖であり、アーモンドの実を結んだアロンの杖である。
福音の靴を履き、あかしの杖一本持っていればいいのだ。いや、それ以外のものを持ってはいけないと言われる。
施すためのお金も、与えるための二枚目の下着もいらない。自分の命を守るための食料さえも持たなくても良い。


 神であるイエスさまは裸で生まれ、人の保護を必要とする赤ちゃんとして来てくださった。
イエスさまがそのように、人の恐れるものを何も持たずに、ひとりの人となってこの地にくだってくださったことで、郷里の人々は勘違いをした。我々が大工の家族を養ったのではないか・・って、彼はその中で育った者ではないかって・・。

イエスさまはすべてを与え、いのちさえも与えてくださったのだけれど・・それを誰が悟ることができるだろう。
遣わされる者もそのように出て行くのだろう・・。


 汚れた霊の追い出しのための学びもテクニックもいらない。主がすべて必要を満たし、そのための権威を与えてくださるから。
禁じられていることは、自分発のものを何一つ持って出てはならないということ。ただ主から出たものだけを携えて行き、それを与える事。それこそが聖なるものだから。

「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(使徒3:6)


遣わされた者を受け入れる家は、彼を養い、彼に聞いたとおりに主に従順する時、そこは主の踏み行く地、主の領域とされ祝福と約束の地と成る。
けれども聞こうとしないなら、彼らが足に付いたちりを払った時から、そこは主と無関係である。それは弟子の責任ではない。「それはあなたが選ぶこと」である。

 弟子が渡り歩かないことにより、彼らを受け入れた家が聞いたことばに従順するなら、主の祝福を独占することになる。後には、聞いた人々から広がってゆくことになるのだけれど・・。
祝福の独り占め、それは主に選ばれた者の特権であると思う。主が来てくださったことへの喜びを、ただ深い感謝を持って受け取るばかり。
今も主は色々な形で来てくださる。そうして私たちは遣わされもする。すべて聞き従うこともできるし断ることも出来る。

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15:16)

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