石ころ

神の都を見るようになる




最近は黙示録を繰り返し読んでいる。
わからない部分もあまり気にせずに読み進める。今はわからなくてもあとでわかるから・・。

「新しいエルサレムがキリストの花嫁のよう装われて下りてくる・・なんて素敵なんだろう。」と親しい姉妹が話して居られたけれど、今回少し分かったような気がした。


 ひとりになって、夜はどうしても心細くて緊張してしまうことが多く、やっとウトウトしてもハッと目が覚めてそれっきり眠れなくなり、真夜中に台所でウロウロしたり・・、そんなことを繰り返していた。

もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。(黙示録22:5)

黙示録のこのみことばに出会ったときから、「ああ、主の光の中に守られているんだ~」と、闇による緊張が解けていった。
そして、ヨハネの手紙にも書かれていたことを思い出した。

神は光であり、神には闇がまったくない(Ⅰヨハネ1:5)

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。(Ⅰヨハネ)



神さまが私の内にいてくださるなら、たとえこの目に暗く映っていようとも、実は輝く光に包まれているのだと気付いた。肉の目に映るものは過ぎ去って行き、みことばは永遠に残るから。
それでも、人は生きものだからたえず心は揺れ動くけれど、みことばに留まるなら平安がやってくる。

「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

主はすべての初めから少しも変わることの無いお方だから、私に今居て下る主も、新しいエルサレムでお会いする主も同じ方である・・、ということは私は主の内にてもうゴールしているのだと思った。

そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3~4)


私がその時生きていても居なくても、これから起こる出来事よってこの事実を見るようになって行くのである。
それは必ずそうなる。みことばにご真実な主に守られているから・・。

神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。(Ⅰヨハネ5:18)

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