悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。
群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」
これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」(22~24)
同じ出来事を見てもその受け取り方は、見た人の心次第で違ってくる。
群衆は素直な驚きのままに、聖書に預言されている救い主ではないかと言ったが、パリサイ人は自分たちの心の中に在るものの名を言った。
もしわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく者となります。
しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。(27~28)
神の国の到来を予感したのは群衆であった。パリサイ人が支配している彼らがやがて、悟ることのないパリサイ人を裁くようになる。
イエスは御霊に拠るわざと話されても、彼らがその言葉を聞いて心を変えることはなかった。
こうして、神の国の到来は彼らにはさばきの時となった。
わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。
ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。
また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。(30~32)
聖霊の導きによってイエスを「私の主」と悟る。人の知識や賢さによってイエスを主とし、命をお委ねして生涯従うことは出来ない。
イエスを知ることによって神を知るのであり、聖霊を否定する者は創造主である神も知らない。それゆえ、聖霊を否定する者には救いは無い。
神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。(Ⅰコリント12:3)
木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によって分かります。
まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。(33~34)
真実なみことばを心の倉に蓄えて、あらゆる時に口に出しそれを生きるなら、世のすべての問題に対して勝利している。みことばが良い実を結び世に現れて行くからである。
しかし、心に満ちているものが世の遣り繰りであり、不信仰によって汚れているなら、神の祝福も勝利も現れることはない。心に在るものが口から出て来るからであり、口にした言葉が事実となるからである。
良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。
わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。
あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。(35~37)
みことばを語れば真実な神の約束が実現し、不信仰な言葉を口にしていれば、その出所であるベルゼブルの思いがその身に成る。
舌を見張るにはあらゆる事情に優先して、良い時も悪い時も祝福のみことばを語り続けることである。
いのちを愛し、幸せな日々を見ようと願う者は、舌に悪口を言わせず、唇に欺きを語らせるな。(Ⅰペテロ3:10)