石ころ

あれから40年

 

 イエス・キリストの福音に触れて40年であることに、今朝聖書を開いていて気づいた。友に連れられて、小学3年生の息子と教会を訪ねて一つのみことばに出会い、自力を使い果たしていた親子が生きるための脱出の道を見出した。

 

弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(ヨハネ9:2~3)

 

 40年間は子育ての真っ最中であり、経済的にも余裕の無い中で二人の息子の大学の学費、氷河期の中の就職、私の入院、主人の信仰から天に召されるまでの様々な出来事の中で、私はいつも主の眼差しを意識していた。

すべての頼みはみことばのみだった。幸いにして人間的に頼むものを何も持っていなかったから・・。障碍者に対する理不尽に怒っている時も、夢が叶って驚喜した時も、みことばにご真実な主の眼差しを感じていた。

「すい臓癌」という言葉に終わりかと覚悟したとき、涙を流しながらも主の眼差しの中で望みが絶たれることはなく、治療を断わって強引に退院し家族に食事を作った。それが今まで続いている。命は主のものである。

私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ1:21)

 

 こんなに良い環境に置かれていても、生きることが重荷に感じることも多くなって来た。それは辛いことがあるからではなく、天の御国に焦がれてのこともあり、加齢ゆえの呆けからの逃げ腰でもある。

先日レンコンが野菜室と間違って冷凍されていた。昨日はリンゴが凍っているのを見てちょっと恐い。慌てると古い冷蔵庫の感覚でやらかしている。次は何を冷凍するのだろう・・。まあ、これらは冷凍しても食べられるけれど・・。

ポイントカードの代わりにキャッシュカードを出したり・・、やらかす度に老いに恐怖して「主よ。来てください。」あるいは「そちらに呼んでください。」という叫びとなる。しかし、主は年寄りにも甘いお方ではないことは知っている。

 

主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)

 

パウロはキリストに倒されて弱さを得たことを喜んだ。彼は力強い働きをしたが、それはキリストからの力であったのだ。
それなら、老いはキリストの力の充満する時代であり、身をお任せする者には、日々思いもよらないことが起こる面白い時代なのだろう。

 

 小学3年生だった息子は今、遠距離通勤ゆえに早朝に起きて私と聖書を開き、主のお導きを祈って出社する。聴覚障害を抱えつつ一人暮らしの間もみことばと祈りに拠って、山あり谷ありの会社勤めも30年近くなり、良き環境の備えも知恵も忍耐も、神のわざによって備えられ守られて来たのだと感謝している。

 

 家族を巻きこみながらの信仰生活では、それまで悪戦苦闘して来た世渡りの不器用さに対して、主に信頼してみことばに賭ける度胸を備えてくださった。此処に私の経験して来たキリストの平安がある。

 

息子が備えてくれた住まいは、徒歩生活の私でも不自由のない便利な環境であり、大声で賛美しても迷惑をかけない気密性の中に置かれて、殆どの時間をひとりで自由気ままに過ごしている。そう、この自由こそ私が若い頃に切望していたものだった。


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事