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石ころ

1デナリ

 「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1:5)
このみことばを礼拝の後で教えられた。これこそ私たちが受けた1デナリなんだと感動して聞いていた。
私たちが受けたものは、十字架の罪の赦しだけではなく、神様との至聖所の交わりのための必要のすべて。しかもそれは人の日がまだ一日もないうちに備えられていた!
 
 主人がどのようなお方かを知り、受け取った1デナリの真価を知るなら、他の人がどのような働きをしていたか、私は得をしか損をしたか、そのようなことはどうでもよくなる。完全な神様の愛を頂いている人が、他の人のことを妬んだりうらやんだりする必要はない。それは自分に与えられているものがわかっていないからだと思う。

 主人を知っていたなら、朝早くから主人のために働くことができたことを、むしろ喜ぶはずだと思う。「いい汗を流すことが出来た!」って。私は朝早くからずっと、この主人から受けるものの希望で心は安らいでいたって・・。

 神様は、神様を信じる者にちょっとだけの祝福なんてありえないお方。神様は常に最善を与えるお方。誰にでも1デナリ、人を完全な愛をもって愛してくださるお方。
人は人の頭で考えた不完全な平等を神様に強いる。人の納得、人の物差しに神様を合わさせようとしてつぶやいて神様を悲しませている。

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