石ころ

神の懐に入れ(ヨシュア記9章)

 

ヨシュアは彼らと和を講じ、彼らを生かしておく盟約を結んだ。会衆の上に立つ族長たちは彼らに誓った。
彼らと盟約を結んでから三日たったとき、人々は彼らが近くの者たちで、自分たちのただ中に住んでいるということを聞いた。(15~16)

 

ヨシュアは見たから誓ったのである。その結果が良かろうと悪かろうと、目で見たことはその場の事であり、誓うことは何時までも続くことなので釣り合わないことをしたのだ。
でも、なぜか人は「この目で見たのだから、これほど確かなことは無い」と言うのである。

真実はたった三日後に判明する。肉の耳が「聞く」と言うことも、どこまで真実であるか不確かなものであるが、この時は事実を暴露した。
それは、初めにヨシュアたちが予想したことであった。

 

キリスト者には聖霊なる神が霊のうちに居てくださる。しかし、聖霊により頼むことなく生きることも出来るのは、神は人を支配下に置く者としては造られなかったからである。

従順は無知な者を導いていのちの危険から守り、敵の罠や惑わしを避けさせるけれど、神はそれぞれの選択を尊重して何ごとも強要されることはされない。
強要するのは人であり、互いに自分の正義を求めるのである。もし、神の完全な支配下にあるなら人は罪を犯すことはない。ただ、その行いに愛による応答も存在しない。

 

状況がどのようであろうと聖霊はキリストの愛を解き明かして、みことばの約束に安息させてくださる。
従順の備えをして待ち望む者には其処が戦場の真ん中であろうとも、責め立てる千の矢も万の火矢もその身に届くことはないのである。

聖霊はキリスト者のうちに住んでくださる。これほどに近しくいてくださる。
もしすべての自分の計画世の状況に拠る神抜きの働きを差し止めて、御前に座してみことばに聴き祈りのうちに静まって耳を澄ますなら、安息を奪う魂を治めて主とのお交わりを楽しむことが出来るのである。

 

そこでイスラエルの子らは出発し、三日目に彼らの町々に着いた。彼らの町々とはギブオン、ケフィラ、ベエロテ、およびキルヤテ・エアリムであった。
イスラエルの子らは彼らを討たなかった。会衆の上に立つ族長たちがイスラエルの神、主にかけて彼らに誓ったからである。しかし、全会衆は族長たちに向かって不平を言った。
族長たちはみな全会衆に言った。「私たちはイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。だから今、私たちは彼らに触れることはできない。(17~19)

 

主にかけて誓ったことは、それが主に聴くこと無く誓ったことであろうと翻すことは更に主を蔑ろにすることである。その誓いの結果がどのようになろうとも、誓ったら負わなければならない。

そうでなければ、主を人の好き勝手な要求によって作り上げた、実体のない偶像の扱いとすることになるのである。
だから主は人が負いきれないものを負わなくてすむように、「誓ってはならない」と命じられた。

 

「私たちは彼らにこうしよう。彼らを生かしておこう。そうすれば、私たちが彼らに誓った誓いのために、御怒りが私たちの上に下ることはないだろう。」
族長たちは全会衆に言った。「彼らを生かしておこう。」彼らは全会衆のために薪を割る者、水を汲む者となった。族長たちが彼らについて言ったとおりである。(20~21)

 

ヒビ人の策略は成功し彼らは命を得たのである。此処には神の憐みが隠されていると思う。ヨシュアたちのしたことは愚かであったが、彼らの結論を神が許されたのは憐みに拠ることなのだ。主が喜んで聖絶を命じておられるわけではなく、彼らもまた神に造られた者であるから・・。

 

いのちを得るために逃げ込むところは今も主の民の中に在る。キリストのいのちの備えによって、何の策略も必要なく弱さをそのままに語って飛び込めば良いのである。

そこで働きを得ることは生かされることであり、主は豊かに養い育ててそれぞれに相応しいたまものを与えてくださり、生きる喜びを満たしてくださる。
主のご真実は必要を備えて無いものを要求されることはない。無いものを要求する世の労働とは違うのである。

 

水を汲む者とされたのは今も救われた者すべてである。聖霊の水を汲み続けて世に救いを流す者であり、それは渇くことのない水であって、汲む者をいのちに満たして溢れて行くいのちの水である。

 

ヨシュアは彼らを呼び寄せて、彼らに言った。「あなたがたは私たちのただ中に住んでいながら、なぜ、『私たちは、あなたがたからとても遠いところの者です』と言って私たちを欺いたのか。
今、あなたがたはのろわれる。あなたがたの中から、奴隷たち、私の神の家のために薪を割る者と水を汲む者が絶えることはない。」(22~23)

 

ヨシュアはヒビ人にのろわれると言ったが、彼らは命を得たのだから祝福を得たのである。もし呪いがあるするなら、主に聴かなかったヨシュアにもその責任が及ぶことになる。

 

彼らはヨシュアに答えた。「しもべどもは、はっきり知らされました。あなたの神、主がこの全土をあなたがたに与え、その地の全住民をあなたがたの前から根絶やしにするように、しもべモーセにお命じになったことを。それで私たちは、自分のいのちのことであなたがたを非常に恐れ、このようなことをしたのです。」(24)

 

これは彼らの信仰告白でありこれ以上の返答はない。

 

「ご覧ください。今、私たちはあなたの手の中にあります。あなたのお気に召すように、お目にかなうように私たちを扱ってください。」
ヨシュアは彼らが言うようにし、彼らをイスラエルの子らの手から救った。それで彼らは殺されなかった。
ヨシュアはその日、彼らを会衆のため、また主の祭壇のため、主が選ばれる場所で薪を割る者と水を汲む者とし、今日に至っている。(25~27)

 

キリストの御救いに与った者として、このように主に申し上げているだろうかと考えさせられた。確かに命も家族もすべてのものは神の御手の中にあるけれど、「お気に召すように扱ってください」とまで願ったことがあるのだろうかと。


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