虹色オリハルコン

命にエネルギーを与えるパワーの力

命からエネルギーを奪うフォースの力

どちらを選ぶかは自分次第

人類は生まれながらに、みんな平等だ

2023年06月15日 | 

LGBTについて、あえてスピリチュアルに踏み込んで言うと・・
例えばね、輪廻転生を女性で繰り返していた人が、何の因果か突然今生、男性の体に生まれてしまうことがある。
魂が女性でからだが男性って言う場合も、本当にあるし、その逆もある。
当人だって、わざと演技でやっているわけじゃなくて、本当にどうしようもないことなんだ。

ふなっしーは男性だろうと女性だろうと関係ない。ふなっしーの心はふなっしーの心で、ふなっしーの言葉はふなっしーの言葉だ。

だから、こういうことって他人がとやかく言うべきじゃないし、病気でもないから治るものでもないのよ。

ずっと以前だけど、そういう方の過去世を調べたら、今生は女性で生まれているけど、今の人生に一番影響を与えている直近の過去世は男性だった。
彼女(彼?)は、自分の心と体の不一致にずっと苦しんでいたけど、同じような人がある一定の割合でいることで安心した、救われた、って言っていた。


体と心の性が一致にしていないだけで、でもそれ以外は、そこら辺にいる誰とも同じ、普通の人たちだ。
悪い人もいれば、いい人もいる。立派な人、賢い人、未熟な人、人それぞれ、長所も欠点もある。それも同じ。
でも、おおかたは、優しい人たちだと思う。マイノリティの疎外感や孤独を経験しているから。

氷川きよしさんはずっとフォースだったけど、ある時期突然パワーになった。自分に嘘をつくことをやめた時から。


自民党保守(むしろ自民党統一教会系)と言われている人たちは、何を恐れているのでしょうね。
トイレとか更衣室とか、子どもへの影響とか、起こってもいないことで恐れているけど、常識の範疇なら、やって良いこと悪いことわかるでしょう。普通の人だって社会ルール守れない人は一定数いるからね。
何人かの悪人のために、LGBT全部を悪者扱いにするような態度はとてもよくないです。


働き蟻の集団のなかで、働かないアリが2割ぐらい必ずいて、働き蟻だけにしようと何もしない2割のアリを排除すると、残った集団の中でまた、2割何もしないアリが出てくるって言う。その2割のアリは、働かないことで、不測の事態に備えているんじゃないかと研究者も言っている。


だからこういう、人類の中で一定の割合で起こることも、神様の何らかの配慮の出現なのだと思います。
それでいいと思う。みんな違ってみんないい、でしょう?
誰でも人としての尊厳が認められる、そんな世界を作ろうよ。



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 ふなっしーをどんどん好きになる?


まことに、その通り。
自民党保守勢力と参政党はLGBT法に反対しているけど、やはり旧・統一教会の影響下にありそうだ。
   ↓

 


付記

コロナ政策の全体の経緯がよくわかりますので、お時間のあるときにでも、ぜひご覧になってくださいませ。
南出市長の事、私は人として尊敬しています。原口さんのことも応援しています。


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アルゼンチンの奇妙な一致

2020年10月21日 | 

過去世については、信じる、信じられない、よくわからない、人それぞれと思います。
私どものスタンスは、過去世があるから今がある、というものです。
ですが、信じられないと思われる方はどうぞ、今日の記事はスルーしてくださいね。
スピリチュアルは、確認のとりようのない話題ですし、この記事も同じですから。

信じる信じないはご自由、といつも書いておりますが、「自分以外は信じない」というフレーズが、とある人の過去世から伝わってきたことです。





キネシオロジーテストで過去世を見るというのは、一見、つながらない、無理だと感じられると思いますが、
数字に強く反応することから、年代がわかり、地図を見ながらテストをすると、当時生きていた場所に強く反応することがよくあります。
過去世は一つではないので、今の問題がいつの過去世から一番影響を受けていたか、と言うようなステートメントを出すと、それに即応した答えが伝わってきます。

自分たちの抱える問題の中で影響を与えている過去世を知ってしまうと、なぜかいろいろなところから納得することがあります。
袖すり合うも多生の縁と言いますが、今縁あって付き合っている人たちや家族など、同じグループで繰り返して同じ時代に生きているようです。

だから自分の過去世を調べているうちに、過去の家族とのつながりがわかったりして、たとえ今、嫌なことがあっても、過去にそんなことがあったんだからこれは仕方ない我慢しようとか、あの人はあの人で大変な過去があったのだ、と許せる気持ちがわいてきます。そして前向きに試練を乗り越えられるので、ストレスもほぼなくなってしまいますから。
(別に占い師でもないので、お金を取って人の過去世を見たりすることはありません。)





それでも、世の中に影響を与えてしまうような方たちの過去世はどんなのだったのか、気になってしまいます。
かの人の言動の理由がわかれば、それをどうにかして癒やせないかとも思いますけど、今起こっていることは、意識アセンション、ディセンション。人類か進化するための縄文以来のダイナミックな意識の変革であると感じるから、止めようもないものです。


正解かどうかは過去に戻れないので、わかりませんが、マイナスフォースの世界のリーダーにある共通点を見つけたことがあります。
みんなアルゼンチンに過去世を持っていたこと。そして、支配する側ではなく支配される側にいたことです。

トランプ氏や安倍氏の事を調べた時もアルゼンチン、とヒットしていた。
ちゃんと検証していなくて記事にはしていないが、どこかの記事のコメント欄に書いてました。




スガさんの過去世を調べたときも、最初は影響のあった年代でした。そしてやはり、アルゼンチンだった!!

時代、110年前。場所、アルゼンチン。移民。琉球か沖縄からの移民。
そしてそのときのおもだった気持ちは、「自分以外は信じない」

なぜこんな答えが出るのか、奇妙だとは思いますが、やはり・・と、腑に落ちるところもあります。
もしそういうことであるのであれば・・・
他のマイナスフォースのリーダー同様、アルゼンチンでよほどつらい思い、苦労されたのだろうということです。
出身地が沖縄だったのも縁が深いなあと思います。

アルゼンチン 沖縄 移民 110年前
これで検索をかけてみたらあまりにもビンゴな記事に当たってしまい、鳥肌が立ってしまった。
本当に沖縄からアルゼンチンに移民していた人たちがいたこと、そして数字も110年。
   ↓

沖縄・名護からアルゼンチンへ移民して110年 「名護市民会」が新年の集い | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラス

 【郷田まみ通信員】名護市民会は1月28日、フロレンシオ・バレラで新年会を催し、大城ヤスノブ会長が新年のあいさつをした。 1909年に名護市...

沖縄タイムス+プラス

 


もし、過去世で、沖縄からアルゼンチンに移住したのであれば、辺野古のある名護市の出身であったらしい。今また、辺野古沖の埋め立てで沖縄県民ともめている現実。いったいどんな因縁なのだろう。

・・・不思議なんですが、過去世を調べていると、本当に今と映し鏡にも似た、フラクタルな現象が出てくるのです。


「自分以外は信じない」
総理になって真っ先にいった言葉「自助、共助、公助」の最初の言葉「自助」
そのような言葉がすぐに出てきてしまうのも、過去世と照らしてみると、どんな裏切りがあったのだろうか、と思います。





日々、意識の二極分化は起こっているので、実は今マイナス闇フォースは、すでに終わってマイナス消(しょう)フォースというワードにヒットしています。
(日々の変化が激しいので、ブログの内容が次々古くなってしまいます。汗)


なぜ、こうアルゼンチンが出てくるのかわかりませんが、アルゼンチンの歴史をウィキベディアでざっと読んで、インカ帝国からのスペインの侵略、植民地となり、独立運動や内戦の歴史があって、やはり混沌の中で、支配される側は苦渋の連続だったのだろうと思いをはせました。

恨みや復讐心のようなものが、時代を超えて出てきてしまう、どれだけ悔しく強い思いだったとしても、現代まで継続させるのは不毛だと思います。
「消」の意味は、魂の記憶が消える、初期化する、闇が消える、という事を感じていました。
それは自分の潜在意識の中で積み重ねてきた過去の経験が消えてしまう、ということ。
自分に置き換えたら、ちょっとつらいなと思っていたのですが、
もし、あまりに強い恨みや復讐心が時代を超えて持ち越されてしまうなら、不幸は終わらない。
それすらも消えてしまうということなら、逆に魂が恨みから解放される、救済されるということではないのか。

・・で、あるなら、今起こっている意識の二極分化は、マイナスという数値になってしまった人々にとっても、なんと慈愛にあふれているのだろうと感じました。


まあ、こんな見方もあるかもしれない、という、あくまでも仮説です。



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あまりにもスピリチュアルな時代

2019年05月29日 | 





体は消えても 魂は消えない

一度作ってしまったカルマは

時を超え 時代を超えて 繰り返し

突然に フラクタルのように顔を出す


過去の怒りを 過去の恐れを

止める勇気を持つものだけが 乗り越えられる

今 乗り越えなければ 次はない

そんな時代に生きている





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 続々々サーカーの予言・4つの哲学と略奪資本主義の終り
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映画「ヒアアフター」(少しネタバレ)

2017年05月04日 | 


ヒアアフター(2010年 アメリカ)


これは、とてもスピリチュアルな映画でした。

フランス、イギリス、アメリカ。それぞれの町で、全く別の暮らしをしている3人が、映画のラスト近く、ロンドンのブックフェアに導かれるようにおもむき、ようやく出会う。
それは、偶然のようで偶然でない、のだと思った。
それぞれが抱えた、つらい試練がなければ、この場所に来れないはずの3人だったから。


「スピリチュアル」に対しては、好きな人も嫌いな人もいるでしょうが、どちらもあって当然と思います。
検証しようがないことを言っているのですから、インチキ霊能者が口からでまかせで言っても、普通の人にはわからない。真実も嘘もごちゃまぜなところもあります。
まだ準備できていない人が、単純な興味本位で踏み込むと、ある部分では、とても危険な世界でもあります。

しかし、この映画は、見えない世界について、奇想天外なファンタジーではなく、臨死体験者などの学術的な資料も参考にしていたのではないかと思われます。かなり良心的に描かれていたように感じました。だから、エンターテイメント追求の映画とは一線を画しますから、人によってはこの映画、どこが面白かったの?という方もいるかもしれませんが。
しかし私にとりましては、GWの1日に、この映画を見ることができて、原点回帰したというか、ほんとうにしみじみと良かったです。


2010年製作のこの映画は、日本ではあの東日本大震災があった前年でもあります。
偶然かどうかもわかりませんが、巨大津波に巻き込まれるシーンなどもありますので、トラウマのある方だったら、スピリチュアルに一定の理解があって了解できる方でないと、きついかもしれません、ということを付け加えて。


震災後、被災地に入り、誰もできないボランティアを一人黙々と続けていらした飯田史彦さんのことを思い出しました。

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いんやくのりこ著「ママ、きっと会いにいくよ。」

2016年11月27日 | 
ママ、きっと会いにいくよ。」いんやくのりこ


高いパワーの本にはめったに出会えないのですが、はじめて、いんやくりおくんの本「自分をえらんで生まれてきたよ」を手に取った時、うちの不思議人間が、中を見なくても「癒される」と感じました。
そして、お母様のいんやくのりこさんの、新しい詩集が出たのですが、これまた、「癒される」・・というより、パラパラっと1,2ページ読むとはなしに、ながめると、いきなり号泣してました。
不思議人間は、何か特別なことに出会った時、本人の意志にかかわらず、理由もわからず、泣くことがまれにあるのです。
魂が共鳴するから・・といえば、これも不思議な話ですが、きっと目に見えない世界から来る本当のことだから、と言います。目には見えないことだから、証明のしようもありませんけれど、私もそう信じています。
あくまでも詩集、あるいは美しい詩画集という形をとっていますが、りおくんがわざわざ選んだママ、のりこさんもまた、どこか巫女的な力があるのではないでしょうか。とても深いスピリチュアル性を感じました。



精神宇宙から、からだを持つことで、物質宇宙に生まれてきた、私たち。おかあさんの体に宿ることは、私達にとって一大イベントなのかも。
だからこそ、おかあさんとこどもは、特別の関係なのだと思います。
これからおかあさんになる人、なったばかりの人、子育て真っ最中の人、すべてのおかあさんのために。そして、今生は子どもを産むことを選ばなかったすべての女性のために。
まだ、この世に生まれ出る前の、身体を持つ前の魂が、語りかけてくれます。生まれなかった魂も、天使として見守っています。

子育てに悩んだ時、迷ったとき、苦しい時、子どもが「わざわざ」自分をお母さんに選んでくれたことを知って、優しい気持ちになれるのではないかと思います。そして、心ならずも子どもを失ったお母さんにとっても、なぐさめや救いがあるのではないかと思います。



最後の詩には、特に、はっとしました。


あなたのいる世界が すばらしく美しい
あなたがいて 世界はすばらしく美しい


ありのままの あなたが 

あなたの場所に いてくれることを

わたしは 必要としている

なぜか どうしてか わからないけど

そういうふうに なっている


あなたが 喜んでいると

わたしの心は あたたかくなる

あなたの光を あびるとき

わたしは 息が楽になる

 
でも わたしがあなたに 語りかけるのは

あなたに 喜んでもらいたいとか

わたしの心を あたたかくしたいとか

そういう理由ではなくて

ただ そういうふうに なっている

そういうふうに なっていることに

とても 敬虔な思いがする


あなたのいる世界が すばらしく美しい

あなたがいて 世界はすばらしく美しい




誰もが皆、誰かの子ども。そして、だれもがみな、本質は、天使、光。
なぜ人は、この世に生まれて、この世で人と巡り会い、縁あってその人と家族となるのか。それもまた、ほんとうに不思議。

 ただ そういうふうに なっている というところに不思議だけど、それがこの世の真髄なんだろうなって思いました。
宇宙の理(ことわり)、人の理、命の理、魂の理・・・
芋虫が蛹になり蝶になって空に舞い上がるように、小さな種が、土と水と光だけで、花を咲かせ実が結ぶように、私たちの体も魂も、物質宇宙と精神宇宙も  ただ そういうふうに なっている のではないかと感じました。

素敵なご本でした。 

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「神様がくれたひとすじの道」

2016年02月14日 | 



神様がくれたひとすじの道」 いんやく りお 著


このところ、折にふれては、いんやくりおくんのこの本を開いています。前作の「自分をえらんで生まれてきたよ」同様、最強パワーです。

社会の出来事や、身近な出来事、シンプルだけど哲学的でもあり、その時々、あらゆる状況にフィットするようなりおくんの言葉に、励まされます。

この世で生きること、そして死んでゆくこと、年齢を重ねてきたせいか、「死」というものが、以前よりずっと身近に感じることがあります。

今日は、こんな言葉が・・・しみじみしました。


人間は、脱皮する。
死ぬときに、脱皮する。
脱皮したたましいは、
生きていた家庭に帰ってきたり、
ほかの人として、生まれ変わったりする。
記憶がある人も、記憶がない人もいるけれど、
ここに戻ってきているのは、同じこと。



昨年、親戚の葬儀に夫婦で参列しました。
無宗教の家族葬で戒名もなし。サイモンとガーファンクルの曲が流れるお葬式でした。生前からの故人の意志であったのだといいますが、その方は、現世主義で非科学的なことを否定されていたので、高いお金をかける葬儀にも、常々疑問をもっていらっしゃったようです。
しかし、うちの不思議人間が見ると、亡くなった方が、明らかに戸惑っていらっしゃるのが見えたそうです。
突然の事故だったので、自分が亡くなったことが、理解できていなくて混乱しているようだったとも。
それで、ちょうど「コンドルは飛んでゆく」が流れたので、その曲に導かれるように、その方に対して、うちの不思議人間が、上へ上へ・・・というイメージを伝えていくと、上から導く人が見えた途端、サーッと上に上がっていったそうです。
そして次の瞬間、晴れ晴れとしたお顔で降りてこられて、かわいがっていた小さなお孫さんたちを、優しく腕を伸ばして包み込むような姿が見えたそうです。
あちらの世界は、時間も距離もないので、こちらでは一瞬に思えても、おそらくあちらに行ってすべてを理解して、再び、戻ってこられたのではないかと思います。
信じる、信じないはご自由ですが。

「死」は終わりではありません。また、死なない人もいません。
遺族にとっては悲しいばかりかもしれませんし、時に理不尽で納得できない死もありますが、持ってこられた「運命」のようなものもあるのです。
旅立っていった方には、今生を一生懸命生きてこられた事への、ねぎらいと感謝の気持ちを伝えることが一番ではないかと思います。

またいつか、時を隔てて逢える日が来るかもしれません。その時はたとえ忘れてしまっていたとしても。

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臨死体験で、自分の運んだ銃で殺された人の痛みを知った人の話

2015年08月07日 | 
奇しくも広島原爆投下日に当たる8月6日の前日5日、国会では中谷防衛大臣が「核兵器の輸送も、自衛隊は排除しない」という答弁をした。
「現実にはそんなことはありえないが」をカギかっこにしてはいるが、法案がそのまま通れば、要請があれば核兵器の輸送もありえるという。つまり、状況次第で、核兵器の輸送すら許されてしまうのです。
なぜなら、今度の法案では、大量破壊兵器の輸送を禁止と明記していないからです。

内容を知れば知るほど、憲法学者の皆さんのおっしゃるとおり、「戦争に参加すること」を認めた憲法違反の法案。法を破れば犯罪になる。
主権は国民にあると明記された国でありながら、改憲のための国民投票もせず、一部の政治家だけで憲法違反を押し通してしまうなんて、与党議員たちは集団的犯罪者になりたいのだろうか。


以下、東京新聞より



核兵器も「弾薬」と解釈 安保法案「輸送排除せず」
(2015年8月6日)

 中谷元・防衛相は五日の安全保障関連法案に関する参院特別委員会で、戦闘中の他国軍に対する支援で行う弾薬の輸送について「核兵器の運搬も法文上は排除していない」との見解を示した。日本周辺事態を想定した現行周辺事態法による米軍支援では弾薬輸送を可能としているが、海外での自衛隊活動を広げる安保法案の審議で、輸送できる弾薬に大量破壊兵器も条文上は含まれると解釈を広げた。
 弾薬の輸送は、国際貢献を目的に掲げた旧テロ対策特別措置法、旧イラク特措法に基づく米軍支援では支援内容から排除。周辺事態法での米軍支援では可能としているが、政府は「弾薬」を「武器とともに用いられる火薬類を使用した消耗品」と定義。核兵器は想定されていなかった。
 中谷氏もこれまでの特別委審議で、ミサイルや手りゅう弾、クラスター(集束)弾、劣化ウラン弾も弾薬にあたり、輸送を「法律上排除しない」と説明してきたが、五日の特別委では核兵器も加えた。化学兵器の輸送も条文上は排除されないとし、核兵器を搭載した戦闘機への給油も「法律上は可能」と述べた。
 同時に、中谷氏は他国の核兵器を輸送する可能性については「全く想定していない。あり得ない」とも強調した。日本が核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」とする非核三原則を堅持し、核拡散防止条約(NPT)にも加盟していることを根拠に挙げた。
 主な支援対象国となる米国が、核兵器や化学兵器を使用する可能性は低い。だが、クラスター弾や劣化ウラン弾はイラク戦争で実際に使用。自衛隊による弾薬輸送を種類に応じて禁止する「歯止め」が法案に規定されていない以上、「非人道的」と批判される兵器をいつの間にか運んでいたということにもなりかねない。
 民主党の枝野幸男幹事長は記者会見で「法的にできるが、(安倍政権は)やる気はないという話はまったく意味がない」と述べ、将来の政権が実施する余地を残す法案を批判した。



話はガラッと変わりますが、昔に読んだ本で、どこで読んだか、タイトルも失念してしまったのですが、臨死体験をしたアメリカ人男性の話を思い出したので。私には特別に印象的な話だったので、この部分だけは覚えているのです。

よく臨死体験のパターンの一つに、自分の来し方が一瞬にして走馬灯のように見えたという話を聞きますが、その方も自分が生まれてから死ぬまでの行動を次々に追体験してしまったのだと。
それも、実際の人生では、自分の視点でしか見えなかった出来事が、自分が働きかけた相手の視点で追体験をしてしまったのです。

こどものころ、自分がいじめた相手には、自分ではふざけただけだったのに、相手の心に入ってしまったら、それがどんなに相手が傷ついた出来事だったのか、相手の痛みが我が事として感じられたのだと。
自分はなんて嫌な男だったのか、数々の追体験で嫌というほど悲しくなったり苦しくなったりしたのですが、さらに大人になってついた仕事で。
彼は一度、武器を輸送する仕事をしたのです。
彼自身は、運んだだけで、直接手を下したわけでもなかったのに、自分の運んだ銃と銃弾が、兵士の手に渡り人を殺したことまで見えてしまいました。すると彼の意識は、撃たれた人の中に入ってしまい、その人の苦痛と、戸惑いを追経験。さらには、殺された人の家族の悲しみまで、自分のことのように追体験させられました。
彼は自分の人生が、とてもひどいものだったと気づいた上で、また、この世に生かされました。

・・・私たちは、皆つながっている、ということ。他人にしたことは、自分に帰ってくる、という真理が現実の物質世界だけではなく、霊となった未来でも受け取らねばならないということ・・・。
今の科学では説明のつかない、このような不思議なことがあるのですね。

この本、タイトルも忘れてしまいましたが、いじめや戦争をやめようという意味合いの道徳的な本でなかったのは確かです。
あくまでも、精神学の研究者が臨死体験の事例を数多く集めて著した、学術的な本の事例の一つです。
(今回記事を書くにあたり、家の本を探してみましたが、どこかに埋もれているようで、みつかりません。もし、同じ内容の本を読んだ、あるいは知っているという方がいらっしゃいましたら、コメント欄かブログ管理者メッセージで教えていただければありがたいです。)





人間は神聖なものです。自分自身もそうであるように、どの人もどんな立場の人もどんな民族も、それぞれに神聖なものをもってこの世に生まれてきた魂であり、私達自身が進化する宇宙と一体の存在であります。

戦後70年、誰も戦争で人殺しをしなかった、それだけでも、日本人の集合的な意識レベルは、ブータンやコスタリカとともに、他国に類を見ないほど、とても高いのです。
70年戦争をしなかったこと、おそらくは、私たちの70年は、他国の100年未来の経験ではないかと思えるのです。それは日本人として誇りに思いこそすれ、100年過去に戻ってはいけない。
核兵器など大量破壊兵器はもちろんですが、銃弾薬の輸送も同じです。
戦争に参加しない国であり続けること。
日本は、日本独自の戦争に加担しない平和貢献に尽くすべきで、平和憲法を有名無実にしてはならないと思います。

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後藤健二さんと信仰の力

2015年02月13日 | 
続きの続きです。
この記事は、あえて当ブログカテゴリーの「魂」に入れます。m(_ _)m

東京新聞、2月6日の元外務官僚・佐藤優氏の本音のコラムより。佐藤氏がキリスト教徒だったと知らなかった。佐藤氏と後藤さんは同じ教団のプロテスタントであった。

キリスト教徒の死生観
佐藤 優

 過激組織「イスラム国」によって殺害されたジャーナリスト後藤健二氏は、日本基督教団に所属するプロテスタントのキリスト教徒だ。筆者もこの教団に所属するので後藤氏の心情がわかる。
 イエス・キリストは、99匹の羊を残してでも、迷った羊を探すべきだといった。「イスラム国」に湯川遥菜さんが捕らえられたとき、誰も本気で彼を助け出そうとしなかった。「誰もやらないことならば、君がやらなくてはならない」という神の声が後藤氏には聞こえたのだと思う。
 メルマガ「クリスチャントゥデイ」(昨年5月30日)のインタビューを読むと後藤氏の信仰がよくわかる。
 「もし取材先で命を落とすようなことがあったときに、誰にも看取られないで死ぬのは寂しいかなとも思いました。天国で父なる主イエス様が迎えてくださるのであれば、寂しくないかな・・・なんて、少々後ろ向きで受洗を決意したのは事実です」
 旧約聖書詩篇54篇の「神は私を助けてくださる」という言葉について、後藤氏は、「この言葉を、いつも心に刻みこんで、私は仕事をしています。多くの悲惨な現場、命の危険を脅かす現場もありますが、必ず、どんな方法かはわかりませんが、神様は私を助けてくださるのだと思います」と述べる。筆者も後藤氏の死生観から謙虚に学びたい。
(作家・元外務省主任分析官)


佐藤氏のこのコラムを読んで、後藤さんには、イエスキリストへの謙虚な信仰心があったのだと知って、私自身も少し救われた気がしたものだ。

誰が好き好んで、死と隣合わせの仕事をするのだろう。普通の人は、御免被りたいと思うだろう。戦争ごっこは楽しくても、現実の戦場は、ハリウッド映画とは違うのだから。
そのことを嫌というほど、身を持って知っている後藤さんが、この仕事を続けていたのは、苦しんでいる人たちの現実を知らせ、なんとか救済したいという使命感ばかりだったのだと思う。お母様が「幼い頃から優しい子だった」とおっしゃっていた通りの人だったのだと思う。

戦場では、心のなかが荒んで、声を上げて泣きたい時もあっただろう。今度のことだけでなくずっとずっと前から、折れそうになる心の葛藤と後藤さんは戦っていたんだと思う。
そのようなときに、「神は私を助けてくださる」そう思うことで、平常心と安らぎが得られるなら、信仰は後藤さんにとってかけがえのないものだったに違いない。





私は、自分の感覚から、肉体は消えても魂は決してなくならないと信じている。私を守ってくださる力があるということも、感じている。
人も動植物、鉱物すらも、自然の中にあるこの世のすべての存在は、神様あるいは宇宙の意志の力によって、生まれて存在しえていると感じている。
それらは、一般的には非科学的と言われることかも知れないが、むしろ現代科学がまだそれを解明できていないだけなのだと思っている。
だからこそ思う。後藤さんの肉体は失われても、魂はなくならない。また形を変え、成し得なかったことに挑戦するために、荒んだ世界を持ちながら、一方ではたとえようもなく美しい、私たちの地球に生まれてきてくださるに違いないと信じています。
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謹賀新年

2015年01月01日 | 




核のない世界 平和へと続く道

魂とからだと宇宙の本質に寄り添える道

大変微力ながら 求め続けてまいります


今年もどうぞよろしくお願いいたします




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人生の最後を考えることは、悔いなく生きることにつながる

2014年06月17日 | 
6月14日の東京新聞に、興味深い記事が出ていた。「人生の最後」どう迎えたいか・・・という特集記事。





我が家の不思議人間のおかげで、父と母が亡くなった時、体は果てても、魂は自由になって故郷へ帰る、ということが事実として受け入れられるようになった。
それを踏まえると、死を自分のこととして考えた時、関わりあった人たちに、感謝の思いを伝えられるなら、病院だろうが家だろうが、死に場所はどこでもいいような気もする。
現実の多くは、衰え弱った体で病院のベッドでチューブに繋がれた姿を、家族親戚縁者に見せながら亡くなってゆく。残されたものは、辛く悲しく、また死への恐怖ばかりが残ってしまうのではないか…

家で家族に向かって「大変なこともあったけれど、それがまた面白く、良い人生だった。今までありがとう。お先に、向こうの世界に行くよ。じゃあね、いつかまた会おうね」と笑顔を見せて別れることは出来ないものか?
・・・いざとなったら私だって、こんな余裕なんかないかもしれないし、不慮の事故という突然の別れもあるかも知れないし、人それぞれの別れに何が正しいなんて言える性質のものではないけれど。

ところで、特集記事では、それについて3人の識者が語っている。そのうちの一人、宗教学者で臨死体験などの研究もされているカール・ベッカー氏の話を、ご紹介したいと思います。
飯田史彦さんも、「死」は体から離れて生きることだと、言われていますが、「死」を考える時、カール・ベッカー教授の視点で見つめると、死はすべての終わりではないという学術的な研究の裏付けがあり、死への恐怖は薄らぎます。
すれば安心して、ここに生きていることそれ自体が、限りある今生に与えられたかけがえのない一瞬と思え、大切にしなくては、と気持ちが変わってきます。



(東京新聞 2014年6月14日)


自宅でみとり大切
カール・ベッカー


 現代人は死をタブー視しています。これは、自宅ではなく病院で死ぬようになったことと関連しています。医療現場では、死を敗北と捉え、心のケアはほとんどされていません。死んだらすべて終わりとなったら、死を恐れるのは当然です。

 かつての日本人は死期を大事にしていました。千年以上の間、逝く人を囲み、いまわの際に何を見、聞いたのか、書き残してきました。こんな蓄積は日本だけです。文献には、まばゆい光に包まれた存在が迎えに来たと記されています。その名は、時代によって、弥勒菩薩、お地蔵さん、阿弥陀如来、観音様、弘法大師などと変わりますが、いずれも慈悲と智慧の光を見るとされているのです。



 
 死を意味する「他界する」「往生する」「渡る」「休む」「隠れる」「逝く」の表現からは、死後も何らかの形で人は存在し続ける、と日本人が考えていたことが分かります。他界の肉親を思い、お迎えを信じて、朝夕に仏壇に向かってきた日本人。故人を忘れないからこそ、前の世代へ感謝し、次の世代の責任も担ってきたのです。

 非科学的な迷信と切り捨てられてきた「来迎」(※)が再評価されるようになりました。理由は米国で始まった臨死体験の研究。生き返った人の聞き取りから、日本の文献と同じような経験が次々に報告されたのです。今や世界中で、死と心、意識の研究が行われています。

 団塊世代の高齢化で、かつてない時代が訪れます。どんな最後を迎えるかは、各人の選択に任せられるべきですが、全員分の病院のベッドを死に場所として用意するのは財政面からも非現実的。厚生労働省も自宅でのみとりを勧めています。日常の延長上として死があれば、今のように恐れなくなるでしょう。別れを身近に体験した子は、死の重み、不可逆性を知ります。

 徹底的な治療を求めるもよし、延命治療を打ち切って残された時間、財産を有意義に使うもよし。ただ、自分の人生で学んだこと、本当に大切なものとは何か、 を次世代に伝えることだけはしてほしいですね。

 臨死体験者によると、死後には一生を振り返り、反省する時があるそうです。なら、死をまたずとも、日々、内省すればいい。今日という日は、掛け替えのないものと分かるはずです。最後のことを考えることは、悔いなきように生きる、ことにつながるはずです。
(聞き手・都築修)




 ※注 来迎(らいごう): 浄土教で、人が死ぬ際に一心に念仏すると、阿弥陀仏や菩薩が迎えにやって来ることをいう。

 素敵なお花の写真は、フリー素材「足成」さんより





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誰もが光の世界とつながっている

2012年02月25日 | 


魂のメッセンジャーである飯田史彦さんの著書「生きがいの創造Ⅳ」には、光からのシンプルにして真実のメッセージが、さらりと書かれています。
(なお、この場合の「真実」というのは、私にとってそう感じられるという意味です。時に、世にあふれるスピリチュアルメッセージと言われるものの中には、私にとっては、そのように感じられないものもありますから・・。)

あまりにもさらりと書かれているので、うっかりさらりと読み飛ばしてしまったり、時がたつと忘れてしまったり、それではあまりにもったいないです。(これは、誰に向かって言うでもない、自分に向かって書いているのですが・・)
メモのために、忘れないために、少し記しますね。


 


以下、飯田史彦さんが被災地でたった一人、「迷える魂の救済」というボランティア活動をしている最中に現れた、亡くなられた時には教師であった「ニゴリカワ先生」からのメッセージの中の一部抜粋。

 
男性「ニゴリカワ**としての人生を終えて、こちらに戻ってきました・・・・というか、本当は、ずっとこちらにいたのですが」

飯田「ずっとそちらにいた?・・・・あなた自身というか、あなたの正体は、ずっとそちらの光の世界にいながら、こちらの物質世界で生きるニゴリカワ**という名前の肉体の脳とつながりながら、その人物の人生を体験していたというわけですね?」

男性「はい」

飯田「だから本当は、『来た』とか『還った』という表現も、正しくはないというわけですね?」

男性「はい、私自身は、ずっとこちらの世界にいたことを、死んで肉体を離れてから思いだしました・・・・本当は離れるのではなく、『脳とのつながりを終える』ということなのですが」

飯田「なるほど、もともとあの世とこの世を行ったり来たりするわけではなく、あなたの正体はそちらの世界にいるままで、こちらの物質世界に存在する一つの肉体を選んで、その脳とつながり、その肉体を操作しながら、人間として生きる人生を経験する・・・・そのことを『生きる』と表現するのですね?」



自分の魂の正体は、向こうの世界に、ずっとある・・・ということは私たちは、だれもが大いなる光(言葉を変えて言えば、神)とつながっているということにほかなりません。そう思っただけで、ちょっと心が強くなりませんか。
古今東西、いろいろな形で人々は神に祈り続けてきましたが、もしかしたら、これがその最もシンプルな理由でもあり、祈りの原点でもあったのではないかと、思えてくるのです。


 


それから、遺族にとって、救われるようなメッセージもあります。
 

飯田「あなたは、波にのまれて、肺に水が入り、呼吸ができなくなったはずなのですが、なぜ、苦痛を感じなかったのでしょう。・・・・この世の常識だと、猛烈な激痛に苦しむのではないかと、思われますが・・・・」

男性「それがですね・・・・呼吸が困難になり、死を覚悟した瞬間・・・・つまり肺に水が入ってくる前に、あらゆる肉体的な苦痛から解放されたのです。

飯田「それは、たとえば脳が死を察知して、全身の神経から伝わってくる情報を、すべて遮断したのでしょうか?」

男性「いえ、神経からは、生体反応として苦痛の情報が伝わってくるのですが、脳がそれらの情報すべてに関して、完全に無視することに決めたからだと思います」

飯田「なるほど・・・もはや、それらの苦痛情報は、脳にとって何の価値もないと…いや、むしろ安らかな死を迎えるための邪魔にしかならないと、脳が判断したのですね?」

男性「そうです、その通りです」

   中略

飯田「言いかえれば、たとえご遺体がどれほどの損傷を受けていても、激しい苦痛の中でもだえ死んだ方は誰もいないと…皆さまが、安らかにお亡くなりになったと、そういうことですね?」

男性「はい、間違いありません」



くりかえし、書きます。

「言いかえれば、たとえご遺体がどれほどの損傷を受けていても、激しい苦痛の中でもだえ死んだ方は誰もいないと…皆さまが、安らかにお亡くなりになったと、そういうことですね」

早いもので、あの震災からもうすぐ1年経ってしまいます。もともと、被災者の方々、犠牲になられた人々のご遺族に向けて書かれた本です。
たやすく癒えることのない遺族の悲しみと苦しみ、であるかもしれませんが、もし「生きがいの創造Ⅳ」を読まれて少しでも心が和らぐなら・・・この本を読んでみる価値はあるのではないかと思います。


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 ジュピター・生きがいの創造Ⅳ
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2011浅田真央のジュピター・生きがいの創造Ⅳ

2011年12月28日 | 


新聞の見出しには、「天上の舞い」とありました

ああ、そんな感じ・・・あるいは天女とも

フィギュアスケート全日本選手権・浅田真央さんのエキシビジョン

流れる曲は、『ジュピター』

そう、天上の舞いを見せていただいた

あらゆるものを ゆるし包み込む光のような舞いでした


2011年 今年は なんという年だったんだろう

たくさんの人々が 突然に さよならも言えず

魂の故郷へ 帰っていった

幼いあの子が 

結婚したばかりの若い人が

一人一人のかけがえのない大切な家族が


そんなことをふと思ったら 

知らず 涙があふれていました


  真央さん あなたは
  まるで 巫女のようでした


先日 旅立ったばかりのお母様も

「今日も一番近くにいるような感じがした」と

あなたの感じた通り

きっと ずっとそばにいらしたことでしょう

目には見えないけれど それは 本当のこと





飯田史彦さんは学生時代から大学教授になるまで、ずっと、その能力ゆえに「迷える魂の救済」というボランティア活動を一人、続けていらっしゃいました。
時が満ちて、大学を辞め、この活動に専念するという使命を持って、今は、被災地での魂の救済というボランティアを継続されています。
その最中に、飯田史彦さんをいつも導いてくださる、あの光の存在からメッセージが届いていたのです。

そのメッセージを「生きがいの創造Ⅳ」を通してたくさん知ることができました。

「政治と宗教には関わらない」という、飯田史彦さんのポリシー?を覆すような光さんからのメッセージには、心底、納得させられてしまいました。
たくさんの心に残る言葉のそのごく一部をご紹介して、今年は、「虹色オリハルコン」のブログ納めとさせていただきます。

今年も、縁あって見に来てくださった皆様には、心から感謝申し上げます。
どうぞ、よいお年をお迎えくださいね。






「大地震と大津波の発生そのものについては、純粋な自然現象に過ぎません。ただしその一方で、大地震と大津波がもたらした、さまざまな被害の種類と深刻さについては、あなたたち人類が、長年にわたる選択や行為の結果として、受け取ったものです」


「そうです、そのようにして生まれる不信感、つまり自分以外の人間を信じることができないという、つらく悲しい感情を体験し、乗り越えていくことこそが、人間として生まれていく、おもな目的なのです。そして、その体験を通じて不信感を克服し、自分以外のあらゆる存在を信じることに挑戦しながら、魂は自らを成長させ、ますますまぶしく輝けるようになるのです」


「命に関わるものの経営においては、効率性は捨てるのです」


「大切なのは常に未来なのです。過去と現在から学び、未来にいかしていけばよいだけのことです。
さまざまな価値のバランスを取りながら、命のために効率性を捨て、戦いで命を奪いあうことのない世界を創造することに挑戦するのです」


「たとえ挫折したように感じても、何度失敗したように見えても、自分の力を信じて、あきらめずに努力し、勇気を出して挑戦するのです」


「暗闇に灯りを探し、倒れても起き上がって、何度でも挑戦するのです」


「人間であることを誇りに思い、日本人であることを誇りに思い、地球人であることを誇りに思い、この宇宙に存在していることを誇りに思って、努力し、挑戦するのです」


「世の中から『そんなことは無理だ』と笑われても、『きっとできる』と言い続ける役割をあなたが担いなさい」




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合掌

2011年09月11日 | 

あれから半年経ちました 

午後2時46分 黙とう



緑豊かな日本を 回復させてください

私たちが 生まれ変わった時

きれいな 日本であるように・・・




と。

受けとりました



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ぼく、ママのおなかにいるとき・・・

2010年11月14日 | 

ぼく ママのおなかにいるとき、
ジジの車 洗ってやろうとおもってたの
ババのお手伝いも してやろうと思ってたの



(じゃあ、みんなのお手伝いしようと思って、生まれてきたの?)


うん! たすかるでしょっ!





子どもが言葉を話しだすようになって物心つくまでの4~5歳くらいまでの間って、思いがけない言葉に巡り合うものです。
上の言葉、息子が、4歳くらいだったと思いますが、車庫の前で車を見て、突然こんなことを言い出しました。
車、洗ってくれるのはいいですが、なんで「ママのおなかにいる時」がつくのか・・・そこが、なんとも素敵で、おもしろくて。

私の両親であり、息子のジジとババである二人は、ずっと仮面夫婦といっても過言ではなかった・・・

私は母から離婚の相談も何度も受けていたのに、孫ができてからは、母の意識は、離婚ではない方向をむくようになり、幼かった孫が夫婦を結ぶ絆を、期せずにして作ってくれていたことは、はたから見てもよくわかりました。

しかし、上記の言葉を改めて思い出すと、期せずしてどころか、期して生まれてきたのだと今になって思います。
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オーロラ

2010年10月30日 | 

魂の記憶の片隅に 北欧の空がある
 
夜空のスクリーンを
じっと 見つめ続けていた
あれは 夢だったろうか

今 空を見上げるのが好きなのも
どこか 心の中で
オーロラを待っているからかもしれない




■島の上にかかるオーロラ、ノルウェー
National Geographic News
October 29, 2010
 ノルウェーのトロムソ上空を川のように流れる緑色のオーロラ(10月23日夜半から24日未明にかけ長時間露光で撮影)。
 オーロラは、太陽から常に放射される荷電粒子が地球の磁力線に沿って流れ、大気圏の上層部で酸素や窒素の原子と衝突して発生する。太陽嵐が発生するとオーロラはいっそう激しく輝き、通常より緯度の低い地域でも観察できることがある。
Photograph by Thilo Bubek


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