「いつか、アイデンティティーに悩む時が来るよ。」
ある先輩から言われた言葉。
そう、私は今その時が来ているのだ。
前回の「手話を教える事の難しさ」で、
「ありのままの自分」について気づかされて以来考えるようになった。
様々な手段を使い分けるのが、「ありのままの自分」だろうか?
私は中学後半あたりからちょくちょく手話を使うようになったので、
最初から手話が主だったわけでもない。
中学までは、ほとんど声中心。筆談はほとんどなかった。
高校は、聾学校だったから、手話中心。
やっぱ高校が一番コミュニケーションが楽だった。本当に楽しかった。
しかし、その報復として、家族とのコミュニケーションに亀裂が入ってしまったのだ。
高校で声なしで手話を使っている分、発音が落ちてしまった。
母には、「手話を覚えればいいじゃん!」と言えたが、父はそう行かなかった。
父は本当に忙しい上に、私と会える時間も少ない。
せっかく会え、会話できるというのに、ほとんど発音が通じない。
高校生活は楽しかったけど、家では苦しかったし、悲しかった。
こういう経験から、大学にはいってからは、
「声も手話も大事にしていきたい」と思うように。
健聴者には声と筆談、
特に仲のいい健聴者や手話のうまい健聴者、家族とは声あり手話、
そしてろうの友達は声無し手話。
で過ごしている。声を使うときは手話もあった方が+αかもしれないが、
私の場合、手話付きだと微妙に発音の質も悪くなってしまう。
だから、慣れていない健聴者とは声だけが多い。
これが今の私にとってやりやすい方法と思っている。
しかし、その反面、
健聴者と声だけで会話するのは、やはり限度があって、その時どうすればいいのか、
相手も私と声で話す事に慣れてしまったら、そういう対応がしにくくなってしまう。
そして、
ろう者の友達との会話をする時、手話で盛り上がっていたりすると、どうしても
ついていけなくなる自分がいる。自分の話になると、自分の中に焦っている自分が
いるみたいで、手話が時々思い出せなくなってしまう時が多い。
その度に、凹むし自己嫌悪になってしまう。
友達の中には、
「ろう者として誇りを持って生きる」人も少なくない。
「私の手段は手話だけ!」とポリシーを持って、
店員さんとも時間をかけて、手話とジェスチャーで伝えようとした人もいる。
確かに、その方が、時間かかってしまうかもしれないけど、
健聴者たちに、ろう者が伝えようとしている事を読み取る力もつけられるし、
どう伝えれば、ろう者にとって分かりやすいか学べる。
そういう方法も良いと思う。でもそういう事になかなか踏み出せない自分がいる。
大学の友達も、私が声を使えたからこそ仲良くなれた部分が大きい。
私が「声」を使えたから、親身感を持てるそうで、話を積み重ねるうちに
仲良くなり、そして私にとって「声」の限度も相手にわかってくるようになり、
手話も少しずつ覚えていってくれているのだ。
もし、声をまったく使わなかったら、このように仲良くなれなかったかもしれない。
今のまんまでいいと思いつつ、心のの中のどこかで、
「このままじゃ駄目だ」と思う自分がいる。
今はまだ「自分探し」中なんだと思う。
これからも試行錯誤していったり、色々な人と話したりして、
「自分」を見つけていくしかない。
でも、決して「これはない!」と言えることがある。
それは、「聞こえない」事をマイナスに感じてない、という事である。
確かに不便かもしれないし、サポートされる事も多いけど、
聞こえないからこそ、色々な世界を見る事が出来る自分が居る。
そして、聞こえないからこそ、特定の人に限らず、
色々な人と話したいと思える自分が居る。
何より、聞こえないおかげで、今多くの素敵な友達に恵まれている
これだけは決して忘れないようにしたい。
答えのない結論?になっちゃったけど、文にして少しすっきりできた。
これからも感謝の気持ちを忘れずに、
仲間と一緒に「自分」を探して行きたいと思う。