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悪霊の100年 ファシズム計画

2019-04-24 12:05:44 | 日記
邪教カルトマフィア外道、天命尊徳会の降臨

1942年  岡山県英田郡美作で 牧野常二郎により 天命尊徳会が 岡山県内の教職員の関係者により 宗教団体の在家集団として 結成集会が  僅か21名により 平和主義、人類の栄光と 人間尊重教育等の 人間修業道場、中 行われた。

1942年の時代は 南太平洋戦線で苦戦中の中 国内では 金属製品、米の供出が ピーク越える 時期であり  平和主義等  逮捕 監禁される  時代背景でありました。 

故に 結成集会もある農家の作業場で 秘密結社のように  内密に行わました。 内枠は 教職員活動の中 平和主義、人間尊重主義等
禁止された 非合法活動 として地下活動になります。  津山市、岡山市、鳥取市、神戸市、大阪 遠くは 米子、松江、萩、広島
福岡、大分、愛媛、高松からも参加者がありました。  宗教の在家集団の集まりです  

岡山県内には不受布施派の日蓮系寺院がたくさんありました。
牧野常二郎の
本山寺は茨城県鉾田市にある日蓮日興派の 興門派の一寺院 中石寺でした。 この宗教寺院は 身延山久遠寺、富士大石寺、と同じ時期に 派生した 千葉成田妙本寺の別格本山寺でした。  妙本寺の住職は幼少時代を美作で過ごし 中石寺に 住職として赴任していました。 牧野常二郎と 住職安倍日朝は 小学校低学年まで 家が 美作土居で 幼友達という間柄でした。 

牧野常二郎の平和主義の基本は子ども達を戦争で 失いたくない この一点だけでした。 
その平和を日蓮大聖人の 法華経に見いだし平和主義、人道の一大教職員による団体を目指しておりました。 牧野の東京時代の弟子に 戸口城内、名島雄一郎と二人が 東京時代の教え子関係になります。 中石寺の信徒で 興門派の曼荼羅 御本尊さまを いただいていました。 興門派の御本尊さまの力は 目を見張る威力、功徳がありました。 戸口城内は肺を患っていて 完治させていました。 宗教は慰めのものと  いうことが  当たり前の時代に病が祈って治している。 この実体験が 中石寺の御本尊さまに対す 絶対的確信になりました。  

1943年頃に  戸口城内は山木進一と 大阪 梅田の 闇市で 友人紹介で 出会っています。 山木進一は その時の戸口城内の 豪放磊落な人間 質問に対してすべて回答した 

質問の一つに  死後の生命は有るか否か これに明確な回答を得ていました。  それ以降 山木進一は大阪から 岡山市津島の戸口城内宅に毎週通いつめる 生活をしています。

山木進一は  敗戦直後から 戸口城内宅に 付き人となり 西日本を中心に折伏の 大進撃を 牧野常二郎から指令されていました。 

牧野常二郎は 治安維持法違反、不敬罪で 岡山県警に逮捕され 大阪刑務所に収監されていました。  彼は 敗戦の前月に 1945年七月深夜に 栄養失調と 癌により 急死しました。 牧野常二郎の 生前の 願業は平和日本社会、子ども達の満足な食事、 国家は 子ども達の未来を考えた 教育を 18歳まで 無費用にするものでした。  その基本を日蓮大聖人の仏教思想を基礎にしたのです。

戸口城内は牧野常二郎の死を敗戦後  知り

英田郡美作土居の生家に 津山線で向かい ました。汽車の中で は涙が枯れることはありませんでした。



偉大な関西の日蓮大聖人信者慈悲菩薩  友岡雅哉氏 4

2019-04-24 11:52:55 | 日記
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特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第14回(※印は弊社解説)

話を元に戻して、時代が進み
2009年、衆議院議員選挙で公明党は大敗しました。(※31議席から21議席)

民主党政権になり、民族公明連立は解消かと思われました。
と同時に、飛ぶ鳥も落とす様な勢いがあった丹治一派はカットされました。

これで私には一瞬希望が見えたんです。

丹治とその一派によって「指導」という名の下でおこなわれるパワハラは、それはそれはひどいものでした。

飲み会の席でも、仲間の盗聴をしたりして、丹治一派に連なる幹部へのグチや批判めいた事でも言おうものなら徹底的に査問されていました。

精神を病む者や自殺未遂者が出たほどだった。

(※本部そばの精神科医院には、パワハラを受けた若手職員が沢山罹っていたのは事実)

丹治一派における金の着服問題もありました。

まあ、金の問題だけなら、潮出版社から分かっているだけで500万円で、第三文明社も合わせると噂では6000万くらいでしたかね?

そんな金額はかわいいもので(笑)、関西の大幹部に比べたら2桁くらい小さい話だけど。(笑)

また、関西と言えば男子部幹部に火のついたタバコを手に押し付けたり、靴を投げつけたりする元関西青年部長もいましたが、それが今や弓谷(元全国男子部部長、女性問題で解任される)とともに査問の中心者ですから。(笑)

(※丹治チームが切られたのは、選挙敗北によって佐藤浩氏をはじめとして、自民党の後ろ盾を失ったのが一番の原因だったと言う人達もいるが、これは正確ではない。)

(長年の独自情報により、丹治一派が切られたのは、彼らの存在自体が田原、正木、谷口、佐藤ら先輩大幹部達の立場を脅かすまで強大な勢力になったからだと分析する。)

(※2009年迄の丹治氏は、教団本部、新聞社、外郭団体や公明党及び地方の教団組織に至るまで、月刊誌 潮「山木進一の軌跡」の取材活動を通じて全国に闇のネットワークを作っていたのだ。)

(※一部の幹部は「丹治は山友以上」と言っていた。)

(※今では考えられないが、当時は「丹治第7代会長誕生」もあり得た勢いだった事は、丹治氏とその取り巻きならば、知っているはずである)

(※このことに危機感を抱いた人々が、丹治氏とその周辺の不透明な金の流れをリークして処分したのが実態に近いだろう)

(※当時、パワハラ問題だけならば乗り切れると高をくくっていた丹治一派だったが、
さすがの長谷川氏、八尋氏、中野氏などでも、丹治氏の金銭問題は根が深く、守り切れなかったようだ。)

(※しかし、まだ彼らのうち何人かは、丹治氏が復権する事を狙っている者もいる)


また話を戻しますが、当初は公明党は衆議院小選挙区は撤退、黄金の三年で行こうとなっていたんです。

(※田原三郎会長の下で初めて行われた2007年参議院議員選挙では選挙区で3人落とす。【これが原因で佐藤浩副会長は政治担当から外された】)

(※また2009年衆院選では8小選挙区で全敗するなど大惨敗、
執行部は参議院議員選挙に続く2回連続の大惨敗となった。)

(2010年参議院議員選挙(7月)でも比例区得票で伸び悩み、改選議席を2つ落とし事実上の3連敗。
田原会長は就任から4年間で、選挙戦において合計15議席を落としたことになる。)

(※これらは「秋谷元会長がある意味、仕込んだ事」とは、ある情報筋より。)

(※秋谷氏は選挙情勢や分析、対策をする上で非常に重要な要素を占める彼独自の情報網や人脈をあえて田原会長に禅譲しなかった。)

(※選挙情勢が厳しくなっても、黙っていた。何故ならば、負けさせる事で田原体制の失脚か弱体化を狙えるからだ。)

(※それであわよくば彼が自らの復権を勝ち取ることが出来るか、または田原三郎会長体制を傀儡化させて、裏で操作する事が出来ると思っていたからだとその情報筋は教えてくれた。)

(※案の定、先生から「やはり選挙は秋谷の力が必要だな」となり、秋谷氏が再度、選挙全般に絡むようになっていったのである)


そして追い討ちをかけるように、ここで山下以知子さん(※当時関西婦人部部長)が要らぬ活躍をしてしまったんです。

どうしても選挙でリベンジをしたいと強く主張して、小選挙区撤退の流れを止めてしまったんですよ。

それで死んだはずの佐藤浩副会長が復権する因ができてしまったんです。

(※この事で秋谷氏は佐藤浩副会長を政治担当に戻しやすくなり、引退していた市川雄一氏も党務に戻した)

(※一旦は息の根を絶たれた反山木勢力が蘇生した瞬間である。)

(※ある時期、会内で権威を失墜して孤立し、宗門行きまで企てていた秋谷氏は、自分を追い越す勢力だった丹治一派の排除にも成功したので、先生に対する反撃の画策を始める)


(※秋谷氏達は2010年5月に先生が脳梗塞で再度倒た事で、【選挙戦に弱い原田会長を一気に取り込み、池田包囲網を作りあげた】とは、ある内部情勢筋。)

(※2010年、参議院選挙後、夏の最高会議は、池田先生不在の中で正木一派らが小選挙区撤退を主張する。)

(※しかし、他の幹部達は、関西婦人部長が「リベンジしたい、リベンジしたい」と鼻息が荒い事に目をつけ、それを上手く利用し、小選挙区に候補擁立する事が決まり、これで会執行部は、民族党と離れられなくなってしまったのだ。)

※【参考】(公明党の議席数、得票数の推移)
(参議院のカッコ内は【選挙当時の改選議席】の増減を表す。
なおその後の繰上当選や辞職などで前回の当選者数と数字が違うがその比較ではない)

(※2012年以降の【原秋】とは秋谷前会長が本格的に選挙に携わった時代の意味。市川雄一氏が2010年1月に党顧問に復帰する事から、この時期より原秋体制という人達もいるが、弊社では、2012年の選挙で本格稼働としたと【認定】する)


議席数 得票数(万)
衆2003年 34 873 秋谷
参2004年 24(+1) 862 秋谷
衆2005年 31 898 秋谷
参2007年 20(-3) 776 原田
衆2009年 21 805 原田
参2010年 19(-2) 763 原田
衆2012年 31 711 (原秋)
参2013年 20(+1) 756 (原秋)
衆2014年 35 735 (原秋)
参2016年 25(+5) 756 (原秋)
衆2017年 29 697 (原秋)

※(講評)
田原三郎体制から三連敗後、得票数自体は伸びていないが、田原秋谷体制になり、議席数は増加している。

これは秋谷前会長の手腕によるものが大きいと考えられる。「選挙上手」であることの現れである。

但し、前回衆議員選挙は自民党の一人勝ち、同じ与党の公明党は敗北した。
秋谷マジックもそろそろ限界か




特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編) 第15回(※印は弊社解説)


先生は、2000年以降、夏の軽井沢、冬の沖縄以外は地方指導に行かれなくなりましたね。

2007年、久しぶりに関西へ来られた。
その時一番私が驚いたのは、全てが会長決済、田原三郎会長を通さないと先生に伝わらなかった事でした。

年に2回も3回も関西に来られていた時なんかは、関西は先生直結だったので、先生は皆の顔も覚えておられるし、特別な警備もなくノーチェックで部屋にも入れて、なんでも率直に先生に言えたんですよ。

先生の方から「おー、よく来たな!」とか言われてご挨拶ができた。

ところがこの2007年の時は、先生の周りの警備は関西の金城会や関西の日光警備ではなく、東京の長谷川さんの管轄だった長城会(創価大出身者のみによる警護係の立石氏、木村氏ら)が就いていたんです。


だから誰が先生を訪ねに行っても「接遇へ行ってください」と冷たく言われて接遇に回されたんです。

私はそれを見て「あー、全部東京本部(※執行部)のコントロール下に置かれてしまったな」と思いました。
7年間で全く変わってしまったとも思いました。

ちょうどその頃から、先生が衛星放送で、「歯が悪いから、しゃべりずらいんだよ」ということをおっしゃるようになりましたね。

皆も憶えていると思いますが、あれはそうではなくて、実は、本番当日に、原稿が先生に出されるようになったからなんです。

先生は本番その場で、初見でスピーチを読まなければならなくなったんです。

(※2003年5月、軽度の脳梗塞を発症され、後遺症として口の周りが動きずらくなったのも原因)

2000年までの地方指導の時では、マーク記者が必死で翌日の紙面の面建てを先生の所に持っていき、先生とともに打ち合わせをし、見出しや、フリガナや、写真の扱いまで先生から細かい指示が出されていました。

スピーチの原稿は、先生と何度もやり取りをして、なおかつ前日には、先生はスピーチの練習までされていたんです。

それがある時から、本番原稿をドンと机の上に置かれているだけです。

どこに力をいれて話すか、どこを省くか、全く先生にも判断ができない。酷いもんですよ。

だから、先生はアドリブを多く入れたんでしょうね。

ですが、その先生のアドリブは執行部に全部カットされちゃった。
執行部にとってよほど都合が悪かったのでしょうね。




特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第16回最終回(※印は弊社解説)

 僕が教団に入ったきっかけは、教団がすごいボランティア活動をしていたからなんです。

僕は高校二年生からハンセン病のボランティアをしているけど、長島愛生園(※岡山県瀬戸内市)へ行ったら、長島大ブロックと愛生大ブロックという二つの教団の大ブロックがありましたよ。

また、大島青松園(※香川県高松市)へ行くとハンセン病の会員さんが、自分たちで建てた会館があるんです。

すごいなと思った。
天命尊徳会に入りたいと思った。

でも教団へ入ってがっかりしたんです。
なぜか。そんなすごいことをやっているのに、教団内では凄い事として讃えられていなかったんです。

本当の会の凄さというのはこういうところにあるはずと私は思うんですけど、どの宗教団体も誰も行かなかったハンセン病の島に、誰か分からないけども、確かに天命尊徳会のひとが折伏に行ったわけですよ。

これはどこに出しても恥ずかしくないことです。
最高の宗教団体ですよ。
なんでそれを自分たちの誇りとして語れないのでしょうか?

まあ、あんまりこの話をするとアクセンチュアと電通がSTB用の宣伝番組を作るかもしれないからね。(笑)

番組を作って宣伝をしろというんじゃないんです。
一人一人が自分の中の蓄積した資質として持ち、それを語る。
教団ってこんなところなんですと。

僕自身は、一年間の殆どを半身不随の会員さんの所におむつを替えに行っていた事もありました。

これは最高のボランティア活動と思ってます。
誰も見ていない。でも、そんなボランティア活動が、今の会の組織にありますか?

本来、宗教活動は最高のボランティア活動であるべきだと私は思うんですが、そうではないですかね。

(※活動とボランティア活動をどう捉えて行くかは、読者の皆さまのご判断に任せたい)

(※しかし、仏滅後の時代に菩薩行を貫いた不軽菩薩が死に際して、仏の声を聴くのは示唆的である。)

(※菩薩の行は忍耐を本となす。忍耐に四種あり。

一には罵り(ののしり)を受けても黙して報いず。
二には打たれても恨まず。
三には怒るものあれば情けを持って迎え、
四には侮(あなど)るものあれば、その悪を思わず。)

(※今わの際に、「そうだ。その通りだ。それでいいんだ」と師匠の懐かしい声が耳に響くような人生にしたいものだ)


私は思うんですが、今の教団本部との本当の勝負は、きっと20年後ですよ。
20年後に勝負してください。おそらく今から5年後くらいには大きな衰退を始めるでしょう。
今は急いだらいけませんよ。



※「関西天命尊徳会の良心」と呼ばれた友岡さんの精神を後世に遺す為に、2018年4月に録音されたお話し内容を基に、各方面の方々の情報なども参考にしながら
編集しました。



4月24日を目前にして、京都乃鬼が此処に記す。


友岡雅弥さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

提供は
敵からは恐れられる
味方からも怖れられる
京都乃鬼新聞社でした。

=広告=

おにゆり乃
忘れ得ぬ風景掲示板
http://bbs7.sekkaku.net/bbs/wasureenu.html

庶民列伝by京都乃鬼
庶民列伝
http://oniyuri.fc2web.com/syominretuden.html


     
友岡雅弥

大阪大学文学部博士課程単位修得退学(インド哲学専攻)
高校時代から、ハンセン病、被差別、在日、沖縄、障がい者、野宿生活者など、さまざまな「社会の片隅で息をひぞめて暮す人々」の日常生活のお手伝いを。

2011年3月11日以降、東北太平洋沿岸被災地に通う。

大学院時代は、自宅を音楽スタジオに改装、音楽はロック、hip-pop、民族音楽など、j-pop以外はなんでも聴く。

沖縄専門のFM番組に数度ゲスト出演をし、DJとして八重山民謡を紹介。友人と協力し、宮川左近シヨウや芙蓉軒麗花など、かつて一世を風靡した浪曲のCD復活も行ったことも。

プロフィール画像は、福島で三つ目の原発が計画されていた場所だったが、現地の人たちの粘り強い活動で、計画を中止させた浪江町の棚塩。津波で破滅し、今は、浪江町の「震災ガレキ」の集積場・滅容化施設が建設されている。(「すたぽ」より)

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偉大な関西の日蓮大聖人信者 友岡雅哉氏 2

2019-04-24 10:32:56 | 日記
"京都乃鬼新聞


特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第6回(※印は弊社解説)

僕(※友岡雅弥)がこういう状態(※うつ病、呂律が回らないなどの症状)になったのは、一昨年(※2016年)の10月ぐらいからかな、ライフワークとしていたボランティア活動を新聞の記者として相応しくない!などと職場で言われ続け、本部からも何度も査問され続けられたから。

本当は医者からは即「もう仕事に行くな」と言われた。

でも、僕の手元にダンボールひと箱分の、その頃の資料があったんです。
先生の直筆の直しとかが入ったやつで、それを全部電子化したんです。3か月かかって。

(※この資料は某場所で保管されている)(鬼笑)

その間にも何度も東京の本部に呼び出されたが、最後にその3か月前の診断書を出して、翌日(2017年1月)から辞めたんです。
向こうは(※教団執行部)僕を懲戒免職にしようと考えていた。

だがその診断書で、振り上げたこぶしの下げどころを失った。
結局、役職解任だけになった。

山内(※関西長)は、僕のことを皆に「あいつは裏切った、極悪人だと言え!」と触れ回った。

僕はといえば、自分の組織で、一昨年(※2016年)の1月13日から10月10日まで、すべての出張を日帰りにして、地区内の一部員として家庭訪問をした。
一日も欠かさずね。

自分から地区内の寝たきりの半身不随のおじいちゃんの尿処理やおむつ替えをした。
これをした事でまた怒られた。「あいつは活動家をつくれない奴だ」と。

でも僕にとって教団本部は、活動家をつくるものじゃなくて、こうした部員さんたちの中で、困った人を助けに行くことが家庭訪問と考えている。

ところが上は「お前は家庭訪問を何だと思っているんだ!活動家をつくってないじゃないか!」と。でも私は何とも思わなかった。

幸せな人を作るのが家庭訪問だと確信していたから、いくら言われても平気だった。ま、そういう事で批判する人が多いんですよ。

このように批判するトップが長谷川重夫(※現理事長)なんです。

ある意味で彼が一番の悪です。
先生の所に入れるべき大事なちゃんとした情報を全部シャットアウトしているから。


(※長谷川重夫氏は、究極のイエスマンだと専らの評判。)

(※池田先生に「右か」と聞かれれば、「その通りでございます。先生のおっしゃられる通り、右しかありません」と答える。)

(※でも、「もしかしたら左じゃないか」と聞かれれば、「その通りでございます。右なんて言うやつはとんでもない。左しかありません」と答える。)

(※その変わり身の速さだけで教団本部の中で生き残ってきたと言う幹部もいる。)

(※2015年に次期会長候補だった正木前理事長が59才という若さで解任された後、72才で理事長に就任したのが長谷川氏だ。)

(※一方で2000年以降、先生は目が悪くなって、報告書をご自身で読むのが難しくなり、耳で聞くようになってきたので、幹部たちは、これを利用して、報告の内容を誇張したり、歪曲したりといろいろな方法で執行部の都合の良いように先生の決済を取り付けだした。)

(※幹部の中でも、前記のように長谷川重夫氏は、前言を直ぐにひっくり返したりしていたので先生から信用を失い、直接報告が出来ない幹部のひとりになった)

(※その点田原三郎会長は巧妙に立ち回り、天命尊徳会の教義変更や会則の変更、特に会長の任期年数の変更をすることにより自らの会長職を延長したり、日蓮世界宗の立ち上げが出来ない今となって、何故必要なのかよく分からない会憲の制定など山木進一先生を利用し続けている)








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特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第7回(※印は弊社解説)

1999年から2000年にかけて大きな大変に大きな変化が起こったんです。

それは何かというと、1999年10月の第一次自自公連立政権ですね。

実は長年に渡って民族党は巧妙に教団本部執行部及び公明党を取り込もうとする策略が模索されていたのです。

さかのぼると、まず宗教法人法の改正(※自社さ政権時代の村山内閣、1995年12月)で教団本部が揺さぶられた。

(※後に民族党の野中広務幹事長は語る)

(※野中が自公連立政権作りを成し遂げた後、有力支持者の一人が「どうやって学会・公明党とのパイプをつくったんですか?」と野中に聞いた。
 すると野中はこう答えたという。

「叩きに叩いたら、向こうからすり寄ってきたんや」)

(※「叩く」とはどう言うことかと言えば、実は「野中は恐い」と言っていた秋谷会長は、1995年12月に宗教法人法改正法案の件で国会に参考人招致されたが、後ろから見ていた公明党女性議員が秋谷会長の足がブルブル震えていたのを見ていた)

(※先生は戦おうとしていたが、秋谷会長が権力にすり寄った象徴的な瞬間である)


当時、橋本龍太郎が四月会の件で教団に謝ってきたというのは表面上のことで、実は学会が自民党の集票マシーンになるのを条件に追及を止めさせた。
それで自公連立が成立したんですよ。


(※背景:1995年より自民党の機関紙自由新報に「シリーズ新進党=天命尊徳ウオッチング」を掲載。山木進一先生個人に対して執拗にネガティブキャンペーンを開始。)

(※1998年衆議院選挙で自社さ政権のうち社会党が惨敗(63議席から15議席)したので、橋本龍太郎首相は社会党の代わりに本格的に公明党との連立にシフトする。
その為に民族党幹部や総裁が謝罪したが、実は信平レイプ事件についてのみ謝罪。)

(※その後、1998年、参議院議員選挙大敗で責任を取った形で橋本龍太郎首相が辞任する。)

(※次に第一次小渕内閣が誕生するが、まだ状況が整なわず、1999年の第二次小渕内閣時で第一次自自公連立政権となる)







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特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第8回(※印は弊社解説)


その後2001年、9.11 を受けてアフガンへの空爆、2003年にイラク戦争が始まった事を覚えていると思いますが、あのとき自衛隊を行かせるかどうかの議論もあったんですよ。


(※アメリカのブッシュ政権による2001年9.11を受けてのアフガニスタン空爆は、教団本部にとっても大きな転機だった。)

(※その以前に1991年の湾岸戦争での多国籍軍進攻に際し、先生はアイトマートフ氏らとともに反戦アピールを発表した。)

(※これがアメリカの一部勢力の反感を買い、1987年に創価大学のロサンゼルス分校(カラバサス)を設立したが、アメリカのユダヤコミュニティの圧力によって閉鎖)

(※本来はカラバサス周辺の土地を買収拡張し、ロス分校をアメリカ日蓮大学にする計画だったが、ロス分校はオレンジ郡への移転を余儀なくされ、その後そこにアメリカ日蓮大学を建設しなければならない経緯があった。)

(※アフガニスタン空爆《2001年10月》を支持をした秋谷執行部は、この時の事が大きなイメージとして残っていたのであろう、
彼らは先生の平和主義・理想主義を時代遅れと見なしており、初めから完全な主戦派であったのだ。)

(※だからこのままでは、アメリカ日蓮大学【開学は2001年5月3日、第一回入学は8月24日。9.11 の直前だった。】さえも潰されかねないと秋谷会長が先生に進言する事になる)

(※それで当時小泉首相時の連立内閣の一員である公明党は、アメリカ支持を打ち出し、米軍のアフガニスタン空爆を最大限に支持する方針となる)

(その後のイラク戦争の時も、
公明党の冬柴幹事長は「イラクにはスプーン一杯で約二百万人分の殺傷能力がある炭疽(そ)菌が約一万㍑ある」などと繰り返し言っていたし、神崎武法代表は「イラク問題の本質」は、イラクに大量破壊兵器が「保有」されていることだと断言。)

(※それに加えてイラク戦争開戦直後には、「(イラクの)大量破壊兵器は世界の脅威」と大書した公明新聞号外まで配布した。)

(※しかし、こう言う大量破壊兵器はイラクにはなかったのであるが、これが判明した後も、そして今に至るまで公明党として公式に謝罪もせず、だれも責任を取っていない。)







京都乃鬼新聞


特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第9回(※印は弊社解説)


(※背景を知って頂くために、前回までの解説が少々長くなったが、友岡氏の証言に戻ろう)

連立を組む前の教団本部の中には自公連立を選ぶ意見と、それを反対する意見がそれぞれにあったんですが、秋谷前会長が強引に自公連立に舵を切ったんです。

そして、この時から教団本部内では、自民党の主流派とつながっている人が学会の中で発言力を持つようになっていったんですよ。

こういう構図にした代表的な人物が佐藤浩副会長です。

(※自公連立の立役者が
①秋谷前会長派 (秋谷氏、八尋氏)
②元青年部派(谷口氏、佐藤氏)
③報恩社グループ(竹岡氏、北林氏)の三位一体であると分析する方もいるが、この三グループは必ずしも一体でない。)

(※長年の弊社取材によると、この三グループは各々の思惑で動き、局面に応じて野合しているだけである。)

(※ただし、既成勢力への迎合という共通の傾向を持つため、結果として三位一体であるように見えるに過ぎない。)

(※野合している例を上げれば、実は報恩社グループの北林氏と秋谷前会長は犬猿の仲である。)

(※また同じく報恩社グループの竹岡氏と八尋氏も確執がある。)

(※また、秋谷前会長と谷口主任副会長も遺恨がある。)



特にこの頃はね、先生は極東諸国の友好関係を築こうとされていた時だったんです。

日中友好を進めるなかでは、先生は第二次大戦で日本が行った筆舌に尽くしがたい蛮行を詫びていますし、また朝鮮半島の人々の事を「文化の大恩人」「兄の国」と評していました。

しかし、これは民族党からすれば絶対に認められないことで、
民族党幹部から当時の連立推進派の教団本部幹部に対して、連立を維持したいのならば「山木進一を黙らせろ!」との条件提示がされたんです。

このとんでもないと思われるこの条件は、実は、執行部にとってはとても簡単な条件だっんですよ。


では、何故かをお話しましょうかね。




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