天空海闊

天命

再編

 

行きたいところに行けない

逢いたい者に逢えない

哀しみが漂う日々

......

己を知り

天命を知れば

人生に絶望なし

 

それを教えてくれるものは

形状は異なれど

すべて真理であり、

 

其々の信条の違いには、

(おそらく天命の違い)

季節の変化や

人の声の変化ほどの

意味もないであろう。

 

だがここに至って、

遺恨が残りそうな者

狡く見える者と

敢えて時間を過ごそうとは思わない。

生涯はあまりにも短く、

互いに向上できる関係は、

滅多にあるものではないからだ。

 

やがては人生の意味を知る者の

(おそらく大多数の者)

現在

或いは今際が、

どれほど惨めで

寂しく見えようとも、

後には何故だか

希望の兆しがある。

 

 

 

参考

 

ヘレンケラー&中村久子

 

歎異抄

 

 

 

コメント一覧

手風(又三郎)
人は自身がよほど身につまされないと変われないように思います。言葉だけで終わる世界は限界があります。

それにしても何と時代錯誤なことでしょう。
手風(又三郎)
昭和12年、母親たちがヘレンケラーの前で琴を演奏した際、彼女は手を広げて空気の振動で聴いていたようで、

「日本の音楽は世界で最も精錬された種類になります」とメッセージが送られた、と聞きました。

ヘレンは自分の手を昆虫の触角にたとえて、私の手は外界を認識するための「ものを見る手」であり、視覚と聴覚を合わせもつようなものだと言っていますが、まさにそうだったようです。

たしかに私たちは余計な情報に翻弄され過ぎてますね。

ヘッセ のその頁の後半に幼年期の心の集中が言及されていますが、読書などの集中時におきる脳の変化は、禅の際に湧出する変化にも該当するようです。

心を集中せよ!
見るを窮めよ、読むを窮めよ!
さすれば世界は仮象となり
仮象は本質となる

「禅寺の若い修行僧」より
ハスキー
原爆投下の被害を受けたヒロシマに 10年ぶりの訪問をした ヘレンケラー と当時の市長の会話を 読みました。
ひとの心の中は、計り知れないです。 余計な雑音を遮断して 本を読みたいです。
先日、ヘッセを取り出したら、 手風さんの引用された部分が そのページに 栞が挟んでありました。
言葉 事象の概念 を コトバで表すことが ヘレンほどの賢い子供にも困難だった。 ひとたび、理解の扉が開かれると 溢れる水のほとばしりの様だった。 感動的です。
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