戯れせんとや生れけむ
遊ぶ子供の声きけば
我が身さえこそ動がるれ
『梁塵秘抄』より
*我流解釈
人間と云うものは、 遊ぶため、戯れるために生まれて来たのに違いない。
遊んでいる子供の姿や声で、私の身体さえも自然に動いてしまう。
この有名な歌から、子供の無垢な姿への愛しさ、親自身もそのような姿を
忘れずにいたいとの思いも伝わってきます。
人間本来の存在意義にさえ触れているようにも感じます。
ところで、私の住む田舎では子供たちが外で遊ぶ姿が絶えて久しいのです。
正月でも外はひっそりとしています。
一方で街に出ると元旦から喧騒に溢れかえっています。
そして、子供たちの声が苦手でストレスになると訴える人が増えたとも聞きます。
どこか不自然さを感じてしまいます。
それでもこの期間の多くの家庭では、子供たちの天真爛漫さは癒しになったことでしょう。
私の父親は臨終の際に『なんら死を恐れる必要はない。先に行っておく』と私たちに
言い残したのですが、「親父が先に行くその場所では何をするのか?」との
私の問いかけに・・・
『・・そこは皆が子どものように遊んでいる・・』と返したのです。
それは苦しい息の中での幻覚だったのかも知れません。
最近ふと、この父親の言葉を思い出したのですが、何ら違和感が有りません。
過ぎ去った魂への安静を願う気持ちの湧出・・
それを無言で支える無私の存在への感謝と云い・・
私もそれ相応の歳に成ったのかと妙に納得しています。
本年も宜しくお願いします。
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