では、なぜ弥勒(慈悲を集約したもの)はそこまでして人を救おうとするのだろう。
人生は自己責任、己が撒いたものを刈り取るだけではないのか?
これも私感なのだが、弥勒の中では、人間の本質に対する考え方が、根拠の乏しい性悪説や性善説に縛られていない。
子供たちを観察すると良く判るが、善か悪かではない景色の中で色々試しているように見える。善にも悪にもなりうる両方の要素を持って産まれているけれど、それは非常に微小で、成長の過程でどちらが強くなるかが決まってくるように思える。
幼い時には良いか悪いかの判断は自分ではできず、この段階で人の本質を性悪とか性善とか決めつけるのは、赤子を生まれながらの神、又は殺人鬼にする、ある種のヒステリーであり、愛を説きながら、その実は世の中に対する絶対者の虐殺を待望する様な思想に繋がり、被害妄想にも似ている。
幼児期はどちらかというと楽しいことや、自分にとって都合の良い方を選んだり、面白いからと、いたずらもする。しかし、小さい頃から、一定の限界やルールを教えてわかるようにしておけば、大人になる頃にはしっかりと判断できるはずである。
多数の研究は、人の言動は、遺伝よりも後天的な影響の方が強いとされている。だからこそ、大概の国では教育は国家的なプロジェクトなのだ。
遺伝と思われる言動も実は、周りの大人、特に親の背中を見て育った、つまり後天的な環境に因ることが多い。
それで、人間は環境と言う第2の子宮で再び育つとも言える。
したがって、自分の子供が大人になって悪人にならないことを望むのであれば、親や周りがその手本を示すしかない。
しかし、これからが本題になるのだが、ではそうした手本が殆どない環境下で育った者たち、彼らが、諸悪に手を染めたなら、彼らを処罰すれば良いだけの話だろうか?
互いの思いやりもなく、人を見れば泥棒か殺人鬼と考えた方が良いような劣悪な環境で育った者たちを不憫に思う者はいないのだろうか?
いや、だから教育があるでしょう。親が悪くても立派な手本となる人の話や本も沢山あるでしょう。ある程度育てば、それを自由に選択できるのだから、やはり自己責任でしょう、との声もあり、私もそう考えて来たので、それは理解できる。
しかし、そうした意見を持つ方たちの大半は、劣悪な環境(他者には分からないことが多い)の深刻さを知らない、比較的恵まれた立場なのかも知れない。
続く