天空海闊

夏目漱石 『硝子戸の中』 より

 二十九

 私(漱石)は両親の晩年になってできたいわゆる末(すえ)ッ子(こ)である。私を生んだ時、母はこんな年歯(とし)をして懐妊するのは面目ないと云ったとかいう話が、今でも折々は繰(く)り返(かえ)されている。
 単にそのためばかりでもあるまいが、私の両親は私が生れ落ちると間もなく、私を里にやってしまった。その里というのは、無論私の記憶に残っているはずがないけれども、成人の後(のち)聞いて見ると、何でも古道具の売買を渡世(とせい)にしていた貧しい夫婦ものであったらしい。
 私はその道具屋の我楽多(がらくた)といっしょに、小さい笊(ざる)の中に入れられて、毎晩四谷(よつや)の大通りの夜店に曝(さら)されていたのである。それをある晩私の姉が何かのついでにそこを通りかかった時見つけて、可哀想(かわいそう)とでも思ったのだろう、懐(ふところ)へ入れて宅(うち)へ連れて来たが、私はその夜どうしても寝つかずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいうので、姉は大いに父から叱(しか)られたそうである。
 私はいつ頃(ごろ)その里から取り戻されたか知らない。しかしじきまたある家へ養子にやられた。それはたしか私の四つの歳であったように思う。私は物心のつく八九歳までそこで成長したが、やがて養家に妙なごたごたが起ったため、再び実家へ戻るような仕儀となった。
 浅草から牛込へ遷(うつ)された私は、生れた家(うち)へ帰ったとは気がつかずに、自分の両親をもと通り祖父母とのみ思っていた。そうして相変らず彼らを御爺(おじい)さん、御婆(おばあ)さんと呼んで毫(ごう)も怪しまなかった。向(むこう)でも急に今までの習慣を改めるのが変だと考えたものか、私にそう呼ばれながら澄ました顔をしていた。
 私は普通の末(すえ)ッ子(こ)のようにけっして両親から可愛(かわい)がられなかった。これは私の性質が素直(すなお)でなかったためだの、久しく両親に遠ざかっていたためだの、いろいろの原因から来ていた。とくに父からはむしろ苛酷(かこく)に取扱かわれたという記憶がまだ私の頭に残っている。それだのに浅草から牛込へ移された当時の私は、なぜか非常に嬉(うれ)しかった。そうしてその嬉しさが誰の目にもつくくらいに著るしく外へ現われた。
 馬鹿な私は、本当の両親を爺婆(じじばば)とのみ思い込んで、どのくらいの月日を空(くう)に暮らしたものだろう、それを訊(き)かれるとまるで分らないが、何でも或夜こんな事があった。
 私がひとり座敷に寝ていると、枕元の所で小さな声を出して、しきりに私の名を呼ぶものがある。私は驚ろいて眼を覚(さ)ましたが、周囲(あたり)が真暗(まっくら)なので、誰がそこに蹲踞(うずくま)っているのか、ちょっと判断がつかなかった。けれども私は小供だからただじっとして先方の云う事だけを聞いていた。すると聞いているうちに、それが私の家(うち)の下女の声である事に気がついた。下女は暗い中で私に耳語(みみこすり)をするようにこういうのである。――
「あなたが御爺さん御婆さんだと思っていらっしゃる方は、本当はあなたの御父(おとっ)さんと御母(おっか)さんなのですよ。先刻(さっき)ね、おおかたそのせいであんなにこっちの宅(うち)が好なんだろう、妙なものだな、と云って二人で話していらしったのを私が聞いたから、そっとあなたに教えて上げるんですよ。誰にも話しちゃいけませんよ。よござんすか」
 私はその時ただ「誰にも云わないよ」と云ったぎりだったが、心の中(うち)では大変嬉しかった。そうしてその嬉しさは事実を教えてくれたからの嬉しさではなくって、単に下女が私に親切だったからの嬉しさであった。不思議にも私はそれほど嬉しく思った下女の名も顔もまるで忘れてしまった。覚えているのはただその人の親切だけである。




*ほんの少しだが認知症との付き合いがある。
分かったことは人はどれほどものを忘れても
心は残ると言うこと。

・・覚えているのはただその人の
親切だけである・・

表面的な記憶は無くなっても魂としての体験
は刻まれていくことを示唆しているのでは
ないのか?

今、漱石の晩年の作が私の心にせまってくる。
そこから開間見える人の原風景を追ってみよう。
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