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雄一郎の半生

こんな人生もあるのですね。ノンフィクションの半生記
全ては、書けませんが。。。

中学に入ったころの母は。

2020年12月11日 05時30分00秒 | 日記

雄一郎の半生

 

私が中学に入ったころには、母は

温泉街に勤めていたが、自宅に

帰ってきていた。そして、近くの

料理店に勤めていたようだ。

私たち兄弟は、小学6年と弟が1年

の時に祖父母が、勉強部屋を

増築してくれた。増築と言っても

2坪ほどで、机が2つ置ける程度

だったが、私は何にも不自由を

感じなかった。

祖父母は祖父が近くの建設会社に勤め、

祖母は私たちの面倒を見ている。

慎ましやかな生活をしながら、

増築してくれたことには、感謝を

しています。そして、

 

中学になりこの勉強部屋で

夜間、勉強をしていると隣の塀の

間にある窓を叩く人がいた。

最初は、びっくりして、誰が

こんな時間に。と思っていた。

その男は「かあちゃんいるか?」

という。私は訳が分からないので

母を呼ぶと、母は、「少しこたつに

あたっていろ」と私を遠ざける。

こんなことが、何回かあった時に、

こたつに入らずに、聞き耳を立てて

いたら、どうやら、母の愛人らしく

同じ村内の妻子ある男だった。

それで、夜な夜な話をしに来ていた

らしい。

この男と母が出会ってからは、

恐らく1年ほどで、母がなにやら

旅館を始めるような話をしていることを

耳にするようになった。

 

次回につづく

 

 

 


好きな先生に巡り会えて

2020年12月08日 06時00分00秒 | 日記

雄一郎の半生

小学校の4年と5年は、佐藤先生が

担任だったので、楽しい学校生活が

送れた。しかし、勉強はついて行くのが

やっとの状態が続いていた。

今も佐藤先生の顔や言葉など

鮮明に思い出せる。

小学校の卒業式の日に、佐藤先生に

会って、お別れを言いに行った

先生は、思い出に残るようにと

痛いほど、握手で手を握ってくれた。

今でも、その光景は目に焼き付いている。

もう、死んでいるかなぁ。佐藤先生。

生きていれば会いたいものだけど、

ありがとう先生、私を可愛がってくれて、

きっと、あの時先生に会っていなければ、

私は、学校にも家にも居場所がなかったでしょう。

ありがとう、佐藤先生。何時までも

お元気でお過ごし下さい。

 

6年の夏休みも、早朝からラジオ体操

のため近くの役場の広場に集合していた。

家には「コロ」という白いスピッツ犬が

おり私は可愛がっていた。当時犬は、

どこの家でも放し飼いが多く、

繋いでいる家は少なかった。

私もコロが体操に行くときはついて

きていたがいつも、いじめられて

いる数人の同級生達は、私の家の

犬だと分ると、石をみんなでぶつけた。

私は止めろとも言えずに、ただ、

それを見ているだけの情けない

子供だった。

次の日は、コロのほほを両手で

押さえて「みんなに石を投げられる

から付いてこないで。」と涙ながらに

鎖に繋いでラジオ体操に出かけていた。

本当に、今考えても自分が情け無く

自分に腹が立つ

 

次回につづく


俺には、なぜ父がいない。

2020年12月04日 05時00分00秒 | 日記

雄一郎の半生

小学4年生になった。4年からは、

本校に行くようになる。子供の足で

歩いて30分ほどかかる。

4年になると、佐藤先生という男の

先生が担任になった。

ある、授業時、佐藤先生に指されて

返事が出来ずにただ、立っていた。

先生は、座っていいよ。と、

この時、当時の私は、「また、

この先生にもいじめられるのか?」

と思い、その後も元気がなかった。

ところが、昼食時に佐藤先生が、

余ったミルクをアルミのカップに

つぎ足してくれた。

「よく、がんばっているね。」と

私は、涙が出てしまった。

嬉しくて嬉しくて。そして、目の前が

急に明るくなった。それからは

佐藤先生が、大好きになった。

学校では、昼食後に校庭を

校内放送の掛かっている間に

走りることが、日課になっていた。

私は、誰も負けずに佐藤先生の後を

追いかけていた。

 

いじめは、と言うと、まだ、終わって

いなかった。でも、クラス替えで

その子たちとは一緒ではなかったが

ある、下校の途中に、、、、

この日は雨が降っていたが、下校時間には

止んでいて、たまたま、いじめられていた

同級生と帰りが一緒になってしまった。

その同級生は、傘を私に投げてきた。

私は思わずに、二、三歩下がったが、

間に合わずに、右の足に傘が刺さって

しまった。長靴を履いていたが、

突き通って出血していた。そこに

世話好きの同級生が、「大変だ、

保健室にみんなで運ぼう」と声をかけて

五、六人で運ばれた。その後に

佐藤先生が、車で病院に連れて行って

くれて、家の近くまで、送ってくれた。

車から家までは、背負うってくれた。

その背中の大きいこと。こんな感じは

父がいない私は経験したことがなく、

先生の肩に手をかけて、どうしていいか

分からなかったが、なんか、背中に

頬を付けていた。とても暖かい、

温もりがあり、先生が父親に

なってくれないかな。と

でも、直ぐに心の中では、

「そんな事は絶対に起きないな」と

打ち消した。ちょっと、悲しくなった。

 

次回につづく

 


両親の離婚の理由

2020年12月01日 06時00分00秒 | 日記

雄一郎の半生

そもそも、なぜ両親は離婚を
したんだろうと思った時期もあった。
 
これは60年後に再会した父から聞いた
話しだが、当時父は、母を殺そうと
まで考えたと言う。しかし、周りの
兄弟や離婚を考えて相談をしていた
弁護士にも止められて思い
止まったと言っていた。
 
当時は、どこの家でも前を流れている
川で洗濯をしており、母も洗濯をして
いると、よく知らない男と、話しをして
いる事があったという。
当時はかなりの美人だったそうで
見持ちが悪かったらしい。
また、父には内緒で子供を下ろしたりも
したそうだ。父が、村の産婆さんに
話を聞きに行き、説得して子を下ろした
事を産婆さんから、聞いたと言っていた。
 
確かに、私と5才離れた弟の間に女の子が
出来た。と母から後に聞いたことがある。
しかし、流産したと言っていた。実際は
下ろしていた様だ。
 
父は、こんなことが理由で離婚した
のだと言っていた。
実際はもっと沢山、他にも嫌なことが
重なったのだろう。父は健康を害して、
病院に入院していたとも、祖母に聞いた
ことがあった。恐らく母は、こんな
父が入院中でも、他の男達と密会して
いたのだろう。体を壊して入院していた
父の見舞いの帰りに、父は母の帰りを
尾行して、様子を伺ったりもしたようだ。
こんな状態では、気は休まらずに
病気の療養にもさぞかし、時間が
掛かったに違いない。と私は思った。
 
次回につづく