雄一郎の半生

こんな人生もあるのですね。ノンフィクションの半生記
全ては、書けませんが。。。

母は何を考えているのか、、

2020年11月26日 06時09分49秒 | 日記

雄一郎の半生

 

恐らくは、この頃だと思うが、母は

出稼ぎをやめて、近くの町の工場に

勤めていたようで、ここでまた妻子

のある上司と恋仲になり、挙句の

果てには、祖父母と弟のいる我が家に

その上司を引き入れ、一緒に住むように

なっていた。いつも、夕食時に

一升瓶を立てて酒を飲んでいた。

私はそんな男が大嫌いだった。

ある日、その男の妻と母がやってきた。

「お父さんを返してください」と

泣きながら男の妻は母と祖父母に懇願

していたことが、今も目に映っている。

その後も居座り続けた男は、ある日、

自宅の敷地に竹囲いを作るために、

裏の竹林で竹をさばいていた。

私たち兄弟は、なぜか、男に向かって

遠くから石を投げた。そして

「出ていけー、帰れー」と弟と言っていると

男が怒り追いかけてきた。そして胸倉を

掴まれ、「何するんだ、この坊主。」と

足で蹴飛ばされた。この事が祖父母の

怒りを買い、子供に手を上げるなんて

許せないと、この男はこの日から家には

居なくなった。後に母に「どうして石を

投げたんだい。」と尋ねられたが、

今でも当時の私としては、完璧な返事を

したものだと、自分で褒めている。

その返事はこうであった。

「お父さんになれるかテストをしたんだ」

であった。これを聞いた母は、返事が

出来なかった。

フィックションのような話ですが、

ここに、綴っていることは、全て事実です。

 

次回につづく

 


小学3年生になったが

2020年11月23日 06時00分00秒 | 日記

雄一郎の半生

小学3年生になり、2年までの担任の

先生とは変わり、男の先生が担任となった。

しかし、相変わらず同級生からのいじめは

続いていた。自分は、祖母に育てられていて

幼い時から、友達とはケンカはするな、

悪いことはするな、等と言い聞かされていて

マジメそのもの。そんな昔ながらの

教育をされていたので、友達も出来なかった。

加えて正義心が強くあるので、他の友達が

他の人をいじめていたりすると、直ぐに

間に入るなどの、バカ真面目だった。

友達が出来ないので、家の近くの林の中に

牛か何かの頭部の骨があったので、同級生に

話をしたら、見に行くと言うので、案内したら

たまたま、誰かが片付けけてしまったらしく

骨が無い。すると、同級生が「うそつき」と

皆に知らせて、それからはうそつきの

レッテルが張られてしまった。

それ以外にも、5人の同級生に駅前に

呼び出されたり、みんなから、遊びの帰りに

ガラス欠けや、小石をぶつけられたりもした。

そのうち、女の子まで、いやがらせをする

ようになった。毎日が、地獄のような日々

幼い私には、手を差し伸べてくれる友達も

無く、相談できる大人もいない。

 

次回につづく


小学一年生になってからは

2020年11月21日 05時00分00秒 | 日記

雄一郎の半生

しかし、世の中不公平ですね。

私が入学した小学校は3年までの分校でした。

4年生になると本校に入ることになっておりました。

1年と2年の担任の先生は、定年間近の女の先生で

忘れ物をしたといっては、眉間にデコピンされ、

テストが出来なければ、答案用紙を呼び出されて

先生から手渡しで受け取るときに、手渡しせずに

投げられます。そんな先生でした。

私には何故か、風当たりが強く。よく廊下に立たされました。

たぶんですが、私の住まいの向かいにお父さんが校長先生で

お母さんが中学の先生をしているお兄ちゃんの家に良く

遊びに行っていました。しかし、二年生までの担任の先生は

その向かいの先生達とは、何故か仲が良くなくて、私が

遊んでいるのがみえて気に入らなかったのでしょう。

また、同級生にもいじめられました。先生からもよく思われないのが

原因なのか、父がいないのが原因なのか、今でもよく分かりません。

ただ、正義感だけはこの頃からあり、他の子がいじめられていると

中に入ったりしていましたから、いじめっ子は気に入らなかったの

でしょう。ですから、二年生になると知恵が出て、早退をしていました。

おなかが痛いとか、気分が悪いとかの理由で、学校に行っても

直ぐに給食のパンだけもらって帰ります。

しかし、早く帰ると祖母に叱られるので、みんなが帰る時間まで

帰り道からは、外れたジャリ会社の砂山で遊んでいました。

そんなことを繰り返していましたから、勉強も成績が良いわけが

ありません。通信簿(当時の呼び名)は、1と2ばかりで、

出席日数が少なくて、ばれてしまいました。

3年生になると、益々悲惨になっていきました。

次回につづく

 


最愛の弟

2020年11月19日 06時00分00秒 | 日記

雄一郎の半生

私の弟が生まれたときは、

今とは違い、自宅での出産でした。

奥の方で、おぎゃあ、おぎゃあと

言う声が聞こえて、新聞紙がかけられた

弟が泣いていました。元気な弟は、

その後もあまり大した病気には

ならなかったと、記憶していますが、

ただ、頭や顔や、体にも今で言う

アレルギーがあり、いつも、包帯を

巻いていました。祖母は、母が

父と離婚し、母は、泊まり込みで出稼ぎの

仕事をしており、家には私たち兄弟と

祖父母の4人暮らしでしたから、祖母は

毎週、皮膚科に弟を連れて電車に乗り

治療に通っていました。

そんな弟ですが、年も5歳離れているからか

可愛くって可愛くって、当時テレビが

普及し、マンガを見ている間も弟に

ちょっかいをだして、よく祖父に

怒られていました。

そんな、大切な弟でしたが、17歳で

事故死する、運命とはこの頃は

誰一人として、知りようもない事でした。

 

次回につづく


雄一郎の半生

2020年11月17日 12時05分00秒 | 日記
小学校に入学前は、
近所の子供達とよく遊んで
いました。幼い頃から遠走りするたちで、
干上がった川の中を近くの
友達と上流まで歩いて行った事もありましたが、川の中を歩いていたので、周りからは見えません。よく、お昼になると、サイレンが鳴っていて、祖母からは、サイレンが鳴ったら帰ってくるように言われていました。でもこの日は川の上まで行ってみたくて、
午後になっていたのが分からなかった。
祖母達は、私たちが帰って来ないので、あちこち探していて、大変な騒ぎだったと、後から聞きました。川の上まで行ってこれ以上、上がれないのが分かり、川から出て近くの親戚のおじさんの家に行って見ました。
すると、今おばちゃんが探しに来ていたから、すぐに帰りなさい。と言われてとぼとぼ
歩いて行くと、祖母が迎えに来ました。
拾った薪を差し出すと、まったく、心配かけて。と呆れ顔でした。
次回につづく