戸根明彦ブログ

ZIDEN.Produce.(自伝・自分史の制作)の運営をしています。HP:www.ziden-produce.jp

第1章 始まり(2)

2012-11-30 20:24:10 | 日記
保育園に通い始めた4~5歳の時から、徒歩で一番近い汽車(当時国鉄の予土線といっていた)の駅で、
西ヶ方という高知県の駅(自宅は愛媛県だが、徒歩で20~30步行くと高知県に入る県境でもある)
まで約2kmを歩き、小さい子供の足では40~50分、道草もほぼ毎日なので1時間かかることもあった。

道幅3m位の砂利道で真横は線路と四万十川の支流で吉野川が流れ、
春から秋にかけて通園の途上様々な動植物との触れ合いが否応なくあり、
蝶やトンボは勿論、時には蛇やハクビシン、タヌキとの遭遇も珍しいことではなかった。

また外灯も皆無で秋から冬にかけては懐中電灯も必携だった。
幼馴染の女の子が1人いたのと、朝の通園の時には小学校に通っていた子供も4~5人いたので、
いっしょに連れて行ってもらっていたが、帰りは幼馴染の女の子と2人だけだった。

知っている人は多くないと思うが、シブ草やイタブと呼んでいた植物を、
道端や少し道をそれて採ってきては、おやつがわりに食べながら帰っていた。
その中でも野いちごやアケビ等はちょっとしたご馳走だった。

川のそばまで行くとシャブシャブという木ノ実にもありつけた。
こんな自然のものがおやつだったので、加工されたお菓子などは殆ど口にしなかったし、
周りには店も何もないので欲しがりもしなかった。

駅から保育園までは駅2つ(約20分~30分)汽車に揺られて川沿の線路を走り、
保育園のある最寄駅である吉野生という駅からはまた歩いて20分位なのだが、
ここでもよく道草をするものだから予定の時間に着かないこともよくあった。

この頃通園途中の汽車の中で、少しおしゃまな心が芽生え興味本位で、
よくは覚えていないが幼馴染とファーストキスを交わしている。
これが初恋という感覚もないのだが、幼き日の思い出の1ページというところだ。

こんな具合に家を出て保育園に着くのに1時間以上かかるので、
保育園にいた時間のことより、通園のことのほうがよく覚えている。
その保育園も私たちが卒園して2~3年で統合されて小学校の近くに移転されていて今は無い。

自伝制作はZIDEN.produce.  www.ziden-produce.jp


AKIHIKO TONE

2012-11-29 23:37:10 | 日記
■始まり

1968年(昭和43年)10月10日出生。
この年は明治元年より数えて100年ということもあり、
同級生には明の字をとった名前が多く見られた。
そういう意味もあり私も名前を明彦と名付けられた。

名前については候補も色々とあったようだが、
どうやら姉が名付け親となったようで、
候補の名前の中で画数が良くて姓名判断を近くの仏木寺(四国88ヶ所巡りの42番札所)
にて診てもらった上で決定された。

意味合いとしては明治100年の明と、明朗な男という事のようだ。
ともあれ親の意にそう男となったかどうかは正直なところ自信はないが、
物心ついた頃から人を喜ばせることは好きだったような気がする。
あまり積極的な性格ではないようだが、初対面の人へのアプローチ、
コミュニケーションは割と苦手ではない。

かなりの田舎に生まれ育ち、親は物静かで真面目で粘り強く、
姉、兄とも10歳程の歳の差もあったので、
幼少の頃は人見知りもしていたし、周りには人間関係を築く上での同年代の子供も少なかったので、
割と一人遊びも得意となった。
保育園や小学校に通う頃には友人も多くなり、人間関係は上手く築いていたようだ。

生まれ育ったのは、四国の愛媛県北宇和郡松野町大字吉野というところ。
字は葛川というところで、その名の通り小川が点在する四万十川の支流がすぐ近くに流れる山間の谷間のような土地に育った。
この地には沈下橋という観光雑誌や旅行マップ等で紹介される大雨が降ると文字通り川に沈下してしまい渡れなくなる橋が多数点在する土地だ。
子供の頃は何も思っていなかったし、かなりの田舎とも思っていなかったが、
今思うと世界遺産とまでは言わないまでも、守るべき風景が今もなお変わらず残っている日本の山間の農村という佇まいだ。
そんな故郷のあることに今は感謝している。

目をつぶり故郷を思い浮かべると、本当に心落ち着く豊かな自然と穏やかな人情溢れる山村は、心の宝とも言える。
また厳しい環境でもあり、幼少の頃からこの地には心身ともに鍛えられたのも間違いないところだ。

(・・・続く)  

自伝制作は、自伝プロデュース www.ziden-produce.jp