戸根明彦ブログ

ZIDEN.Produce.(自伝・自分史の制作)の運営をしています。HP:www.ziden-produce.jp

第11章 転機(4)

2013-01-31 20:59:18 | 日記
会合があった日からしばらく経ったある日
(その日はバレンタインデーだった。)

住んでいた独身寮に私宛の小包が届いていて、
送り主の名前に聞き覚えもないし、
何が送られてきたのかも全く分からず、

とにかく開けてみたのだが中にはチョコレートと
小さなお手紙が入っていて、
やっとのことで次第が飲み込めたのだが、

私はお付き合いをしていた彼女もあったし、
浮気を出来るたちでもないので、
どうしたものかと思った挙句、

とりあえずお会いしてお礼を言って、
状況をお話した上で丁重にお断りをしようと
思いお会いすることとした。

その会う約束をする時に事情や話の内容を伝えなかったが為に、
どうやら彼女には少なからず可能性や期待をさせてしまったらしく、
お会いして事の次第を話した時には、
時すでに遅く彼女からはこんな事を言われてしまった。

「優しさが足りない」と。
身にしみる一言だったが、
なんとも情けなくも有難いと思えた瞬間だった。

話を戻すが、私は高校卒業後入社した会社である
ダイコロ株式会社に丸7年を過ごし、
ここで大きな決断をする事となった。

25歳となった私は7年で様々な経験をさせて頂き、
色んな恩義もあり、周囲の人間関係にも、
仕事や生活環境にも大きな不満を持っていた訳では無かったのだが、

その時の私は前向きに自分の考えを行動に変え
一つ一つの経験を自身として、前進あるのみ、
後退や停滞は許しがたいとの思いから、
結局お世話になったこの会社を退職するという決断に至った。

この時は次に何をしたいとか、次の仕事が決まっていた訳でもなく、
とにかく一旦滞った空気を一新する思いで、
次に飛び出したというのが正直な状況だった。

・・・つづく

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第11章 転機(3)

2013-01-30 19:30:51 | 日記
私はそれらの意見要望を現実的で可能性のあるものを
選りすぐって取りまとめ管理部署でもあった
本社総務部長(次期社長)宛に要望書として提出を試みたのだった。
数日後、総務部長より呼び出しがかかた。

幾つかの要望は叶えられるであろうと思っていた私は
総務部長の話に愕然とする思いだったのだが、

その答えは「君たちが何を言ったところで社長は
聞く耳を持ってくれないだろう。
何故なら社長は若い人の自由を制限する事で
将来の安定を提供している事にポリシーを持っているし、
これとは別に会社や、仕事上においても社長の考えに
沿わないものは全て聞き入れられないのだから。」
との話だったかと記憶する。

その時の私はまじまじと絶望感を感じていたかと思う。
ただこのような活動を実行したからこそそんな話が聞けたわけで、
その後の判断や決断を促される要因となったのは間違いない。

その時の私はまだ若かったし、感情的な理解判断だったのかも知れないが、
これ以上ここにいても自らのエネルギーの
発散できる環境ではなさそうだと感じていた。

話は変わるがこの頃もう一つ忘れられない想い出がある。
それは、先にもお話したように私は積極的に
様々な事に挑戦し行動を起こしていたのだが、

いつものように創価学会のある会合で、
私は体験談として入会までの事を40~50人の前で
お話する機会があり、その時に参加していたある女性から、
突然告白されるということがあった。

・・・つづく

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第11章 転機(2)

2013-01-29 19:26:04 | 日記
私は東京にいたときに創価大学の通信制の
法学部に入学していたこともあり、
月に一度は八王子にあった大学に通っていた。

その頃には大阪や関西在住の同窓生などとも仲良くさせてもらっていて、
よくお互い励ましあい、切磋琢磨しあいながら、
学ぶことへの情熱を持ち合わせていたようだ。

大阪では以前住んでいた枚方市にある会社の独身寮にあり、
同郷の後輩などとも親しくして
私の経験や考え方等を吐露していたものだった。

その中でも職場も近かった後輩はいっしょに
創価大学の通信教育を受けるまでになっていた。

彼はその後会社を退職し地元の愛媛県に戻った後、
数年後小学校の教員となっている。

私は大阪にても創価学会の活動には積極的に参加していて、
時折行われていた近くの会員さんの自宅での会合や
会館での会合に参加していた為に、
周りの先輩、同僚からは、地元民でもないのに
良く近所付き合いが出来ると不思議に思われていたようだ。

それと私は100名近くいる会社の独身寮の中で生活する
寮生をまとめる役も担うことになっていて、

渡米前から感じていた若い人の無気力さを何とかしたいと思い、
胸の内に押しとどめているであろう意見や、
希望要望をアンケート形式でまとめることとし、

一つでも二つでもそれらの願いを叶える事によって、
意見を発しても無駄だという無気力感をぬぐい去り、
活発な雰囲気と少しでも希望を見い出せる環境を思い描いていた。

実行にあたっては現状に慣れ親しんでしまっている
ベテランからの多少の反発はあったが、
結果はどうあれまずは行動すること、
風を起こすことが必要だと感じていたため、
ためらわず活動を起こしていった。

・・・つづく

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第11章 転機(2)

2013-01-29 19:26:04 | 日記
私は東京にいたときに創価大学の通信制の
法学部に入学していたこともあり、
月に一度は八王子にあった大学に通っていた。

その頃には大阪や関西在住の同窓生などとも仲良くさせてもらっていて、
よくお互い励ましあい、切磋琢磨しあいながら、
学ぶことへの情熱を持ち合わせていたようだ。

大阪では以前住んでいた枚方市にある会社の独身寮にあり、
同郷の後輩などとも親しくして
私の経験や考え方等を吐露していたものだった。

その中でも職場も近かった後輩はいっしょに
創価大学の通信教育を受けるまでになっていた。

彼はその後会社を退職し地元の愛媛県に戻った後、
数年後小学校の教員となっている。

私は大阪にても創価学会の活動には積極的に参加していて、
時折行われていた近くの会員さんの自宅での会合や
会館での会合に参加していた為に、
周りの先輩、同僚からは、地元民でもないのに
良く近所付き合いが出来ると不思議に思われていたようだ。

それと私は100名近くいる会社の独身寮の中で生活する
寮生をまとめる役も担うことになっていて、

渡米前から感じていた若い人の無気力さを何とかしたいと思い、
胸の内に押しとどめているであろう意見や、
希望要望をアンケート形式でまとめることとし、

一つでも二つでもそれらの願いを叶える事によって、
意見を発しても無駄だという無気力感をぬぐい去り、
活発な雰囲気と少しでも希望を見い出せる環境を思い描いていた。

実行にあたっては現状に慣れ親しんでしまっている
ベテランからの多少の反発はあったが、
結果はどうあれまずは行動すること、
風を起こすことが必要だと感じていたため、
ためらわず活動を起こしていった。

・・・つづく

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第11章 転機(1)

2013-01-28 22:23:41 | 日記
東京に転勤になって2年が過ぎようとしていた頃、
また一つの転機が訪れた。

私は先にお話したとおり、パイロットの訓練を受けつつ、
航空・船舶事業の展開を進めようとしていた部門の
構成員の一人でもいたわけだが、

現実的には時代はバブルの危うさを
ジワジワと露呈し始めていて、
所属部門の赤字は増す一方という状況の中で、

いよいよ会社は徐々に所属していた部門の圧縮を図り始め、
私も業務遂行上時間的な猶予は得られなくなり、
最終的には自身も部門からの離脱を
決断せざるを得なくなってしまった。

会社の期待に応えられなかった無念さは残ったが、
そもそも望んでいた仕事でもなかった事もあり、

その事自体を受け入れることにそれ程の抵抗は無かったものの、
この決断はイコール東京から離れて大阪本社の
印刷事業部門への異動を伴っていて、
またもや折角築いてきた良き人間関係や
彼女との別れを経験する事となるものであった。

そおれでも東京で培ってきた人間関係の深さは
そう簡単には途切れることはないだろうという自信もあり、
東京から大阪への異動はスムーズに行われた。

大阪に戻ってからは仕事や職場環境は変わったが、
私の中では短期間の間に相当に濃い経験をしてきたという自負もあり、
自身の精神的支柱をもって自信と誇りを持った
立居振る舞いになっていたかと思われる。
大阪にいても東京の彼女とは続いていたし何度も行き来はあった。

・・・つづく

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