戸根明彦ブログ

ZIDEN.Produce.(自伝・自分史の制作)の運営をしています。HP:www.ziden-produce.jp

第16章 信頼(6)

2013-02-28 21:45:10 | 日記
その後松山市に2年住んで職も3回変わった。
結局のところこの頃には毎日を生きることがやっとで、
明確なビジョンも無く自分自身が
何をしたいのか等何も無い状態で、
生きがいすらも失っていた様に感じる。

ただ何とか私を支えていたのは
前にもお話した彼女の存在だけだったように思う。

ここまでの私は何とかやってきたという感じではいたが、
最愛の人ともこの頃別れる事となり、
とうとう私には何も無いどころかどんどん転落している
自分を認めざるを得ない状況とも言えた。

それでも私は何とかしなければとの思いで、
松山市内にあった県の機関の一つで、
独立開業を目指す人を支援する組織に相談をし、
そこで運営するブースを借りて挑戦を試みるこことし、

当時いっしょに仕事をしていた人の何人かに声をかけ、
4人で事業計画を練り企画案を作り、
具体的行動を起こす準備を始めていた。

事業の目指すところや企画の内容は
悪くないと思ってもらえる人もいたが、
本当に事業として成り立つかには内心疑問もあり、

ましてや私たちにはその道のプロと呼べる人間も無く、
資金力もない中ではどう考えても想像の世界、
空想の絵空事といったところだった。
結局は企画どまりで事を起こすことなど出来もしなかった。

・・・つづく

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第16章 信頼(5)

2013-02-27 17:20:25 | 日記
私は一つの責任を果たせたと感じたのと同時に、
やはり小学校時代の同級生は皆んな仲が良かったのだと
あらためて思えたひと時だった。

その時私に一番に同調してくれ、
いっしょに事を起こしてくれた
信頼できる友人はその数年後、
病で他界してしまった。

良い人間ほど早く逝くと言われるが、
もっともっといっしょに色んな事を
共有したかった誇りに思う友人だった。

実家に戻って2年が過ぎ仕事も真面目に
コツコツとこなしていたのだが、
いつまでも親の世話になる訳にはいかず、

そろそろもう一度立身する事も考えると、
このままではいけないと思い始めていた矢先、
勤めていた会社の社長の息子が親の会社に戻ってきて、
後を継ぐ準備をする事となった。

この男何れ程甘やかされて育ったのかと思える位の我侭な男で、
私は一瞬にしてこの男の下で時間や労力を
費やすことは出来ないと思ったのだが、

すぐに事を起こす事も出来ず、
また兄の紹介で入った会社であった事への義理もあり、
とりあえずは今後の身の振り方を
定める事を考えながら勤めていたのだが、

地元から車で2時間ほどのところに松山市という
愛媛県では一番大きな街で、
次の仕事を求めることが出来たことを
きっかけとして転職することとした。

・・・つづく

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第16章 信頼(4)

2013-02-26 13:40:39 | 日記
そこで私は、同級生のひとりで
仲の良かった信頼できる友人に話を持ちかけ、
小学校5年生、6年生当時の担任で
隣の町に住んでいた先生のところに
2人で出掛けていき同窓会についての相談を始めた。

先生の指導を頂きながら会の進行や準備・段取りの大枠を決め、
地元に残っている同級生数名にも声をかけ、
それぞれの役割分担や進行について話をし骨格を決めていった。

そして私が実家に帰ったその年の
お盆休みに合わせて同窓会を開催する事とし、
3~4ヶ月の間で手分けして全国にいる同級生に案内を送り、

38名いた同級生のうち25名程の同級生と
1~6年生までの担任の先生や教科でお世話になった先生も招待し、
地元の仕出し屋さんの2階を会場に借りる事とし、
会に漕ぎ着ける事に成功した。

タイムカプセルの中身については私も忘れていたのだが、
文集や絵画その他その頃の時代を物語る思い出の品が入っていた。

既に他界している同級生のお墓参りを全員で行い、
小学校をバックに記念撮影をして、
夕刻会場に再び集まり同窓会となったが、

小学校時代の面影そのままの人や
全く別人のようになっていた人、
それぞれの近況を話してもらい、
先生や友人との旧交を深め懐かしく
楽しいひと時を持つ事が出来た。

・・・つづく

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第16章 信頼(3)

2013-02-25 20:32:56 | 日記
この時二人で初めて行った軽井沢旅行は
とても幸せな一時だった。

正直なところ今までの恋愛の中で
最も心に染みる恋愛であり、
パートナーであったと言えるだろう。

結局理由あって別れる事とはなったが、
今でも好きな人である事は否定できない。

本当に会えて良かったし、恋愛できて良かった。
もう会うことは無いかもしれないが
あらためて「ありがとう」と言いたい。

話は変わるが東京から実家に戻った私は、
すぐに兄の紹介で兄の知人が責任者を勤めていた
㈱カドヤという京セラソーラーシステムの
販売代理店をしていた会社にて営業の仕事をする事となった。

今回の仕事はそれこそ1軒1軒飛び込みをして
家の屋根等に太陽光発電システムの
搭載を勧めてまわるものであり、

簡単にはいかなかったが持ち前の粘り強さと
真面目さで目の前の仕事に邁進する毎日だった。
そんな毎日と同時に実家に帰った私は
もう一つやっておきたい事があった。

それは小学校卒業時に20年後の33歳の時(女性の厄払いも兼ねて)に
校庭の隅に埋めたタイムカプセルを掘り起こして、
同窓会をするという約束を果たせていなかったものを
実現するという企てだった。

本来は地元に残っている同級生が主催して行うはずであったが、
大人になって皆んな色々あるだろうし第一面倒な事もあって、
地元に残っている同級生の中には積極的に
行動を起こす者も無かったようだった。

・・・つづく

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第16章 信頼(2)

2013-02-23 21:43:57 | 日記
彼女の方は6歳上という事と家族のある身であるという事もあり、
溢れる気持ちを抑えるのに精一杯といったところだったようだ。

状況は決してまともとは言えないが、
このタイミングで私は東京を離れたことに
少しの痛みと同時に安堵の気持ちもあった。

いかに心惹かれあっても物理的な距離と
いろんな意味で余裕のない状況下では
取り返しのつかない間違いは犯すべくもないと考えていた。

それども気持ちを確認し合ってしまった私たちはその後、
若い恋人同士のように時間を見つけては
電話やメールのやりとりを繰り返していた。

距離があればある程思いは募り、
やりとりを繰り返せば繰り返すほどお互いを思い合い、
この頃の2人は既になくてはならない
心の支えとなっていたのかと思う。

彼女とは結局3年弱の付き合いとなったが、
その間私が東京に行ったり、彼女が愛媛まで来たり、
時には大阪で会ったりと愛を確認し合う事となっていった。

中でも一番の思い出は、私が実家に帰ってから初めて
東京に会いに行くとなった時に、
羽田空港に着いた私を恥ずかしそうに迎える
以前の彼女では無い姿に私は少々戸惑う位であったのだが、
彼女の中では既に本気で私を愛する覚悟を示すかのようだった。

・・・つづく

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