魚鳥木、申すか?申さぬか?

ぎょ・ちょう・もく、申すか?申さぬか?
申す!申す! 魚⇒ニシキゴイ。鳥⇒ニホンキジ。木⇒制定無し、花は桜と菊

お散歩ぉ~でゲット!

2017年07月13日 | お出かけ
目黒川をポテポテお散歩ぉ~していると

チョコレート菓子屋に遭遇!


このくそ暑い気候でチョコレートは
流石に無いなぁ~と
通り過ぎようとしたら、
涼しげな飲み物がっ!テイクアウトぉ~!


Chocolat Froid(ショコラ フロア)
フランス語で「冷たいチョコレート」を意味します。
チョコレートそのもので作られるドリンクの事で
ココアより風味豊かです。

とのこと! はうぅ~C'etais bon.


でっ!調子こいて
エチオピア・モカ、、、テイクアウトぉ~


白ワインのような透明感のあるフルーティーな
味わいが特長。
酸味を感じながらも深みも十分!
美味でオジャリました。


Chocolat Froid(ショコラ フロア)は
期間限定との事なので
お近くに寄られる事がありましたら、
是非ご賞味ください!

※店舗情報※
 OGGI オッジ
 チョコレート菓子
 住所 東京都目黒区下目黒2-3-23
 電話 03-5434-1110
 http://www.cucina-oggi.com/


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駒込天祖神社|東京都文京区本駒込の神社

2017年07月13日 | お出かけ
駒込天祖神社|文京区本駒込の神社

社号:天祖神社
祭神:天照大神
相殿:-
境内社:鎮火稲荷神社、榊神社、須賀神社、戸隠熱田神社、御林稲荷神社
住所:東京都文京区本駒込3-40-1
祭日:例大祭9月16日

駒込天祖神社の由緒
■境内掲示による駒込天祖神社の由緒■
江戸時代には駒込神明宮と呼ばれ、駒込村の総鎮守として信仰を集めた社である。
祭神が天照大神であることから伊勢神宮の流れをくむ神明造りの神殿である。

社伝によれば、文治5年(1189)源頼朝が、奥州藤原泰衡追討の途中この当りに寄った折、
夢で松の枝に幣がかかっているという神託があり、家臣藤九郎盛長に探させたところ、
松の枝に大麻が見つかった。それで頼朝は神明を祀ったという。

「江戸砂子」によれば、直径4尺(1.2m)余の神木であったが、享保年間(1716-36)に枯れた。
その後、宮守りもなく神社は跡絶え神木のもとに小さな祠のみとなったが、
慶安年間(1648-52)堀丹後守利直が再興したという。

昭和20年2月25日空襲により焼失したが、戦後再建し、参道敷石の整備や大鳥居の建設、
植樹などに心がけ、緑濃く落ち着いた雰囲気を持つ境内である。(駒込天祖神社境内掲示より)

■「本郷區史」による駒込天祖神社の由緒■
天祖神社:駒込神明町二番地に在り、古く神明社と稱する(新編江戸志江戸砂子)。
祭神は天照大神であるが、創建の年月詳ならず、或は曰ふ源頼朝奥州征伐の時靈夢に感じて之を祀ると(江戸砂子)。
其の實際は各町史富士前の條に記すが如く永享十一年八月今井茂義の奉祀所であらう。
明治五年十一月村社に列した。九月十六日を以て祭日として居る。(「本郷區史」より)


お散歩報告
駒込天祖神社は、源頼朝が奥州藤原泰衡追討に際して文治5年(1189)
神明を祀り創建したと伝えられ、また或は今井茂義が永享11年(1439)
に奉祀したとの話もあり。
江戸時代には駒込神明宮と称され、駒込村の鎮守で、明治5年村社に列格してました。


参道には猫もお休み中で、


氏子活動も盛んで
祭りの風景が社務所の周りに写真が貼られ報告されていました。



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北口本宮冨士浅間神社から登頂しました

2017年07月12日 | お出かけ
北口本宮冨士浅間神社から登頂しましたぁ~

五号目までは、植物を楽しみながらでしたが
六号目以上は、金剛杖をつきながらガシガシ歩くも辛かったぁ~

ご来光見るために早起きしヘッドランプを頼りに、
山道を歩きましたが人の大渋滞
進む先を眺めると一筋の光の道が完成していたのでヤンス。

ご来光を拝みながら、いざ頂上へ向かうなりぃ~! 
との歩みの途中で、持参のポテチで腹ごしらえとしゃれこもうとしたら

はうぅ~!

膨張しておりますがなぁ~!

そして山頂へ!お鉢巡りをしてから、富士山頂郵便局で証明書ゲット!


いい思い出でヤンス~


かぐや姫の罪 (新人物文庫)
三橋 健
中経出版


霊峰富士山とかぐや姫 との関わりも含め 
神道学の視点から、天上界でのかぐや姫の意外な過去に迫る一冊。

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駒込富士神社|東京都文京区本駒込の神社

2017年07月12日 | お出かけ
駒込富士神社|文京区本駒込の神社

社号:富士神社
祭神:木花咲耶姫命
相殿:-
境内社:曽我霊社、小御嶽神社、下浅間神社、猿田彦祠
住所:東京都文京区本駒込5-7-20
祭日:7月1日、鎮火祭8月26日

駒込富士神社の由緒
■境内掲示による駒込富士神社の由緒■

富士神社はもと、旧本郷村にあった。
天正元年(1573)本郷村名主木村万右衛門、同牛久保隼人の二人が、
夢に木花咲耶姫命の姿を見て、翌年駿河の富士浅間社を勧請した。

寛永6年(1629)加賀藩前田候が上屋敷(現東京大学構内)を賜るにあたり、
その地にあった浅間社はこの地に移転した。
東京大学構内一帯は住居表示改正まで本富士町といっていた。

社伝によれば、延文年間(1356-61)には既に現在の社地は富士塚と呼び、
大きな塚があったといわれる。この塚は一説によると、前方後円の古墳といわれる。
富士神社の祭神は、木花咲耶姫命で、氏子を持たず富士講組織で成り立っていた。

山嶽信仰として、近世中期頃から江戸市民の間に、富士講が多く発生した。
旧5月末になると富士講の人々は、6月朔日の富士登拝の祈祷をするために当番の家に集まり、
祭を行った。そして、富士の山開きには、講の代参人を送り、他の人は江戸の富士に詣でた。
富士講の流行と共に、江戸には模型の「お富士さん」が多数出来た。
文京区では、「駒込のお富士山」といわれるここと、護国寺の「音羽の富士」、
白山神社の「白山の富士」があった。(駒込富士神社境内掲示より)

■「本郷區史」による駒込富士神社の由緒■
富士神社:駒込神明町三八三番地に在る無格社で
木花開耶姫命を祭神とし丈餘の塚上に鎮座して居る。
創建年月不詳、或は曰ふ延文の頃今の社地を富士塚と唱へ富士大神を祭つたが、
寛永五年に至り本郷前田邸内に入りたる富士社を遷して之に合祀すと(神社明細張東京通志)。
往時参詣頗る多く六月一日に大市を立てゝ非常の繁榮を見、寶暦の頃には夏やみせぬ爲にとて
俗間の童子等皆洗髪して之に詣でたと云ふ(塵塚談)。

祭禮の當據夢藁蛇、唐團扇、五色網等を捌くは古くよりの風習で(江戸砂子)「名物鹿の子」
内藤宿水巴の詠にも「子福者の戻りは重し富士團扇」とある。
「江戸塵拾」は夢藁蛇を以て寶永の頃百姓喜八
(新編武蔵風土記稿は之を上駒込村の民三左衛門とする)
の作り出せる處で、疫病除として戸毎に購はれたと記して居る。(「本郷區史」より)


お散歩報告
神社は駒込のお富士さんと親しまれた富士山を模した山の上に拝殿が設けられており、
江戸時代の後期に流行した数多い富士講の中でも町火消しの間で深く信仰され、
境内には奉納された町火消の纏(まとい・シンボルマーク)を彫った石碑が数多く飾られています。

初夢に見ると縁起が良いとされている「一富士、二鷹、三茄子」はこの地で読まれた川柳で、
一富士は富士神社、二鷹は付近の鷹匠屋敷(現在の駒込病院付近)、三なすびは良質のなすびが
駒込で採れたことから、こう詠まれたようです。













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江古田浅間神社|東京都練馬区小竹町の神社

2017年07月11日 | お出かけ
江古田浅間神社|東京都練馬区小竹町の神社

号:浅間神社
祭神:木花佐久夜姫命
境内社:稲荷神社
相殿:-
祭日:例大祭9月15日
住所:東京都練馬区小竹町1-59-2
備考:江古田の富士塚、東新町氷川神社の兼務社

江古田浅間神社の由緒
■江古田浅間神社由緒書より■
当社の創建は不詳です。承平元年(931)六月夏山茅原浅間(当時)に雪が降り、
この山がいかにも富士山に似ているので村人が登ってみると
神体と思われる石を拝したことから「富士の大神」と崇め奉りたことに始まるといわれています。

「新編武蔵野風土記稿」の上板橋の項に「富士浅間神社・能満寺・西光寺侍」とあります。
また当社は「茅原浅間神社」という呼称があり、江戸中期になると
富士講の盛んな上板橋・中新井・下練馬の人々にも崇敬され「江古田の富士」
と呼ばれさらに親しまれるようになりました。
江戸後期には富士浅間神社と呼ばれ、能満寺が別当でした。

大正四年(1915)武蔵野鉄道(現西武池袋線)開通で江古田駅が設けられた為に
清戸道からの参道は中断されました。
本殿は天保十年(1839)の建築ですが大震災で損壊しましたが
大正十三年(1924)には補修しました。
拝殿は昭和二十七年(1952)に、神楽殿は二十九年(1954)に新築しました。

境内には練馬区指定の「大樹のケヤキ」(ネリマ区の名木)が二本あります。
当社は現在、板橋区東新町に鎮座する「氷川神社」の境外末社として奉斎されています。
なお、練馬区の密集住宅街地整備事業により平成四年度(1992)からの
主要生活道路の整備に伴い平成十三年(2001)度より当社境内地拝殿・神楽殿・社務所の新築、改修、
および玉垣・参道の整備を実施しました。(江古田浅間神社由緒書より)

■練馬区教育委員会掲示による江古田浅間神社の由緒■
「新編武蔵風土記稿」の上板橋村の項に「富士浅間社二。一ハ能満寺、一ハ西光寺持。」とある。
江戸後期には富士浅間社と呼ばれ、能満寺が別当であった。当社の創建は不詳。
社伝によると、承平元年(931)6月、夏山芽原浅間(当地)に雪が降り、
この山がいかにも富士山に似ているので、村人が登ってみると御神体と思われる石を拝した。
そこで富士の大神と崇め奉ってきたのに始まるという。芽原浅間社とも呼ばれていた。江戸中期になると、
盛んになった富士講の上板橋、中新井、下練馬の人々に崇敬され、
富士の溶岩を持ち帰って富士塚が造られ、「江古田富士」と呼ばれるようになった。

大正4年(1915)武蔵野鉄道(現西武鉄道)開通で、清戸道からの参道は中断された。
本殿は天保10年(1839)の建築だが大震災で損傷、大正13年に補修されている。
拝殿・幣殿は昭和27年、神楽殿は29年の新築、平成13年改修である。
境内石造物で古いのは、社殿前の文政2年(1819)と嘉永元年(1848)の燈籠、
植樹碑前の文化4年(1807)の燈籠、富士塚入口脇の文化9年(1812)の水盤である。
千川堤桜楓碑(大正4年)は、元は千川上水沿いの酒屋の前にあったが、
上水暗渠に伴う道路拡張により昭和27年当社に移された。
この碑は千川上水沿い7kmに桜と楓1200本を植えたことを記している。
なお境内には区内有数の大樹のケヤキが二本ある。(「練馬の神社」より)



■国指定文化財:江古田の富士塚について■
江戸時代中ごろから昭和初めごろにかけて、江戸八百八講はっぴゃくやこうと言われるように、
富士山や神奈川の大山に登拝とはいしに行く富士講や大山講などの
山岳信仰者の集まりが練馬区内にもたくさんありました。

富士講は、霊峰富士に登り浅間神社に参拝することを目的に結成されたものです。
年ごとに講の代表者として参拝するものを選び、必要な経費を講員全員で負担していました。
富士講がさかんになり、江戸時代終わりごろから富士山に似せた富士塚が各地に築かれました。
富士塚に登拝とはいすると、実際に富士山に出かけたのと同じ御利益があるとされていました。

江古田の富士塚は、高さ約8メートル、直径約30メートルの大きさで、通称“江古田富士”と呼ばれています。
江戸時代後期に下練馬村・中新井村・中村の各講により構成される「小竹丸祓講こたけまるはらいこう」によって
天保10年(1839年)に築かれたものと考えられます。大正12年(1923年)関東大震災によって損壊しましたが、
その後、復旧工事が行なわれ、塚の一部が富士山の溶岩で覆われています。都内の富士塚の中では規模の大きいものです。
昭和61年度区登録・昭和54年度国指定(練馬区 地域文化部 文化・生涯学習課 伝統文化係より)





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護国寺|真言宗豊山派大本山、東京都文京区大塚にある真言宗豊山派寺院

2017年07月10日 | お出かけ
護国寺|真言宗豊山派大本山、東京都文京区大塚にある真言宗豊山派寺院

山号:神齢山
院号:悉地院
寺号:護国寺
住所:東京都文京区大塚5-40-1
宗派:真言宗豊山派
備考:御府内八十八ヶ所霊場87番、江戸三十三箇所観音霊場第13番、
東京三十三観音霊場24番 ホームページ:http://www.gokokuji.or.jp/

アクセス:東京メト有楽町線護国寺駅下車すぐ
都営バス - 都02乙(池袋駅東口 - 一ツ橋)または
上58(早稲田 - 上野広小路)で「護国寺正門」下車



■神齢山 悉地院 大本山 護国寺 縁起■
当寺の創建は天和元年2月(1681)、五代将軍徳川綱吉公が、
その生母、桂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、
大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山とし、幕府所属の高田薬園の地を賜い、
堂宇を建立し、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊とし、
号を神齢山悉地院護国寺と称し、寺領三百石を賜ったことに始まる。
翌2年、堂宇は完成した。

明治16年、大正15年と火災で堂宇の多くを失ったが、
観音堂(本堂)は元禄以来の姿を変えず、
また、近江三井寺より移築された月光殿(重文)は桃山期の建築美を今に伝えている。

その他、薬師堂、大師堂、多宝塔、
忠霊堂や創建当時のものと伝えられる仁王門、惣門。
そして中門と多くの堂宇が保存、または再建されている。
また、元禄文化の粋を集めた書画・什器の他、
国宝、重要文化財等の数多くが寺宝とされている。

震災、戦災と二度の大災害に襲われた東京の都心にありながら、
江戸の面影を今に伝える当寺の姿は、訪れる人々の心のふれあいの場として、
昔も今も変りなく親しまれている。(神齢山 悉地院 大本山 護国寺ホームページより)

■「小石川区史」による護国寺の縁起■
神齢山悉地院護國寺。新義真言宗豊山派大和長谷寺末。
本尊は琥珀如意輪観世音菩薩、開山は亮賢僧正である。

當寺の草創については『江戸名所圖會』に
『求凉亭云く、當寺は京の清水寺を模さるる故に、前の町を音羽と名付け、
又青柳町、櫻木町など名付けられ、又音羽町九丁あるも、
京に一條より九條までの名あるにもとづくとぞ』とあり、天和元年、
将軍綱吉が母公桂昌院の請に依り、元の高田御薬園の地へ一寺を建立し、
桂昌院の念持佛であつた天然琥珀観音像を本尊とし、寺領三百石を寄進したのに始まる。

その後桂昌院及び綱吉も度々参詣し、元禄七年には寺領三百石を加増して六百石とし、
同十年には幕命によつて観音堂を造營し、更に寺領百石を増し、
十六年には五百石を加増して、凡そ千二百石の朱印を給はつた。

かうして本寺は善美を盡せる大伽藍を擁し、将軍の祈願所として、府内屈指の巨刹として、
誰れ一人知らぬものがないほど著名になつた。
享保五年神田護持院が焼失した時、幕命に依つて、護持院を當寺に併置し、
観音堂の方を7護國寺、本坊の方を護持院と稱し、護持院の住持が當寺を兼攝した。

兩寺領凡て二千七百石を賜はり、其規模の壮大であつた事は、
『江戸名所圖會』所載の護持院、及び護國寺の圖を見ても知られる。
又府内八十八ヶ所の八十七番札所としても多くの参詣者を集めた。

明治維新後、護持院は復職して、寺號を廢したが、護國寺は開山以来の法派を保持し、
従来護持院と稱した部分の堂宇も護國寺分に復した。

然るに明治十六年失火して舊本坊を焼失し、
更に大正十五年には天和草創當時の本堂たりし大師堂を失つたが、本坊は直に再建し、
元禄時代に建築した薬師堂を大師堂跡に移して大師堂とした。

現在の本堂は元禄十年建立の観音堂で、
その結構は雄大であり、元禄時代の代表的建築物として、
寛永時代に建立された浅草寺本堂と併稱せられ、
都下の江戸時代代表的大建築として特別保護建造物に指定されて居る。

また昭和三年、原氏の寄進になる月光殿が有る。
これは元滋賀縣大津市の三井園城寺の中院にあつた日光院の客殿で、
桃山時代の書院作りの形式を備へた代表的建築物の一つとして、
特別保護建造物に指定されて居り、桃山時代の建築としては東都随一の物である。

尚ほ本堂の側に、畿内各地の名物を模造して高橋箒庵居士の寄進した石燈籠二十基があり、
東都の一名物として好古家の推賞する所となつてゐる。
又大師堂前には同じく箒庵居士の盡力に依つて成つた茶亭、仲麿堂及び圓成庵がある。
斯く由緒が深い寺であるだけに、寺寶の數も多く、又見るべき物も少くない。

當寺の墓地は明治二十四年三條實美公の墓地に選ばれて以来、
山田顯義伯、大隈侯、山縣公、二荒伯、田中伯、酒井伯、島津公、
南部伯、平田伯、河野盤州、梅謙次郎、竹添進一郎氏等維新の元勲を始め、
多くの近代名士の墓域となり、俗に『公園墓地』の稱がある。

是等の諸建築物や墓地を有する當寺は概ね丘陵の上に有り、
境内頗る廣濶、林樹風致に富み、築山、池水等もあつて公園の趣を呈し、
又音羽通り十數町を其門前町とし、現に市内屈指の佛刹である。

當寺は現在新義真言宗豊山派別格本山で、寺内には豊山派宗務所、
豊山中學校等があつて、同派政教の中心をなし、又その社會事業部は幼稚園、
職業紹介所、兒童圖書館等を経營して、社會事業にも相當の活躍を見せてゐる。
(「小石川区史」より)

小石川区とは
東京府東京市、東京都にかつて存在した区である。
現在の東京都 文京区の西部に位置していた。
廃止日1947年3月15日 廃止理由:設合併(本郷区と小石川区)
現在の自治体は東京都 文京区


護国寺お散歩で出会った猫たち



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1日だけで46,000日のお参り効果!「四万六千日」

2017年07月10日 | お出かけ
観音様の縁日は毎月「18日」だが、
これとは別に室町時代以降「功徳日」と呼ばれる縁日が新たに加えられた。
中でも7月10日の功徳日は、その利益が最も多くて「四万六千日」と呼ばれるようになり、
10日に一番乗りで参拝したいという民衆心理から、前日の9日より人出があり、
7月の9日・10日の両日が、「四万六千日」の縁日と受け止められるようになった。

浅草観音が最も有名だが、かっては本所回向院の一言観音、
四谷の汐干観音、神楽坂の襟掛観音、駒込の大観音などが参詣人で賑わったという。

護国寺では開帳法要が7時30分より行われ「雷避け」のお札が授与され境内には露店も出店する。


護国寺
徳川綱吉の母、桂昌院の発願によって天和元年(1681)に創建された。
開山は亮賢。本尊は如意輪観音。江戸三十三箇所観音霊場の第13番札所である。
近代以降は宮家の墓所(豊島岡墓地)が造られた。これは1873年(明治6年)、
明治天皇の皇子の死去を機に護国寺境内の東半分が皇族墓地とされたものである。



雷除けのお札
その昔、落雷のあった農家で「赤とうもろこし」を吊るしていた農家だけが無事であった事から、
文化年間(1804~1818)以後に、「雷避け」として、赤とうもろこしが売られるようになったが、
明治初年に不作が原因で出店ができなかったことから、これに代わる「雷除け」が人々の要望により、
四万六千日の縁日に出されるようになった。

「観音経」の中に「雲雷鼓掣電 降雹 大雨 念彼観音力 応時得消散」という一文がある。
真心より観音にお願いすれば、雷鳴がとどろき、大雨や雹が降りしきっていても、たちまちに晴天になり、
その難を免れることが出来るという意味だ。

「雷除け」は何か事に出会い心が乱れて理性を失う時に観音を身近に感じ、
利益を頂き心を安めるためのお札です。



基本情報
日程: 7月9〜10日
アクセス: 地下鉄有楽町線・護国寺駅
場所: 護国寺(東京都文京区大塚5-40-1)
連絡先: 03-3941-0764


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光源寺|東京都文京区向丘にある浄土宗の寺院

2017年07月09日 | お出かけ
光源寺|東京都文京区向丘にある浄土宗の寺院

山号:天昌山
院号:松翁院
寺号:光源寺
住所:東京都文京区向丘2-38-22
本尊:木造阿弥陀如来像
宗派:浄土宗
備考:駒込大観音、東京三十三観音霊場27番


■光源寺の縁起■
光源寺は、遂蓮社本誉道公が開山、仙石権兵衛後任越前守
(法名円覚院殿前越前太守空誉道樹大居士)が開基となり、
天正17年(1589年)神田四軒町に創建、慶安元年(1648)当地へ移転したといいます。

丸屋宗閑俗名吉兵衛の寄進により建立された観音堂の駒込大観音は、
大和国長谷寺の観音の写しといい、江戸名所図会にも掲載されている著名な観音像でしたが、
太平洋戦争で被災、平成5年に再建されました。

■東京名所図会による光源寺の縁起■
光源寺は駒込蓬莱町六十二番地にあり、天昌山松翁院と號す、浄土宗深川本誓寺末なり、
仙石権兵衛(越後後守)法名圓覺院(慶長十九年卒)の開基にして、僧本譽を開山とす、
天正十七年の創建に係り、初め馬喰町にあり、正徳四年此の地に移る。

寺門南に面す、左右生垣にて「天昌山」の額あり。門内左に撞鐘堂あり、
正面本堂に通ず、「光源精舎」とあり、境内老縦數株あり、
矗々として天に沖せり、又松と櫻の木あり、東に観音堂並建てり。

大観音堂。本堂に並ぶ、別に門あり、前記天昌山扁額門の東に位し、
道並の生垣に沿ふて設けらる、「大観音」藍字の額、華頂王宮侍講賜紫沙門大雲書とあり、
門内右に水屋あり、其の右墓地に接して庚申塔一基、地蔵尊十二躯、石露佛等あり、
境内廣くして光源寺本堂と共通す、観音堂、土蔵造二階建にして扉左右に開く、
向拝あり、正面に香爐を置く、堂内聯を掲ぐ、右「續稱寶號己投種於蓮胎」、
左「一發菩提即標名於金地」傍に賜紫沙門明道書と細書し、左に閻魔王、
右に脱衣婆の像を置き、正面に銅鋼を張り、裡に燦爛なる金色の十一面観音立像を安置す。

所謂大観音、一丈六尺と稱し、其御首や二階の窓戸より拝せらる、尚四壁に金色の千體佛を勧請す、
即ち西国坂東秩父の百番の観世音菩薩並に七観音薬師佛千手観世音、
阿弥陀佛、地蔵菩薩、瓣財天女等の諸尊像なり。

江戸砂子(三)に云、大観音、長谷のうつし、立像一丈六尺なり、
観音千體佛、常念佛、貞享のころ江府の町人九吉兵衛といふ者建立す。

江戸名所図會にも、大観音、千駄木七軒寺町光源寺といへる浄宗の寺内にあり、
和州長谷寺の寫にして、十一面観音の立像(長一丈六尺)なり、又同堂内に千體の観音を安す、
貞享年中江府の上人九吉兵衛なるもの是を建立す。

大観音と稱して世に知らる、毎年七月九日十日の両日(世俗四萬六千日といふ)は参詣群集し、
境内は見世物、賣物店にて充たされ、其賑ひ延て近傍數町に及べり。
又平日癩病患者の願懸する者多し。(東京名所図会より)




駒込大観音
「駒込大観音」は大和国(奈良県)長谷寺本尊の十一面漢音を模して元禄10年(1697)に建立されました。

像の高さは2丈6尺(約8m)あり、長谷寺の観音様と同様に地蔵菩薩の持物である錫杖を持ち、
岩の上に立つという独特の様式で、お地蔵さまの慈悲をあわせもつ観音さまとして、
古来人々の信仰を集めてまいりました。「江戸名所図会」の挿絵としても掲載されている駒込大観音は、
7月9日と10日にお参りすると46000日分のご利益がある「四万六千日」の縁日、
酸漿市として今日にいたるまで賑わいをみせております。

この駒込大観音は昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲により堂宇もろとも灰燼と帰し、
そのお姿を拝むことができなくなってしまいました。爾来私どもはその復興に努めてまいりましたが、
ようやく念願がかない再興が相成りました。

再興された十一面観音は長谷寺式同様に錫杖を右手に持つ像高6m余の立像で
仏像彫刻家・西山如氏により父・如拙氏の監修のもとで木曽檜を用いた寄木造りで彫刻され、
さらに東京都伝統工芸士の藤原茂夫氏により漆塗りと金箔・金粉を施して仕上げました。

また、像の後方壁面には書家・柳田泰雲氏揮毫の
「妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈」が陶板に加工して飾られ、堂内を荘厳しております。
観音堂は楜沢成明氏の設計で右手の阿弥陀如来と千手観音の石像は、
駒込大観音を建立した江戸の町人丸屋吉兵衛の供養塔です。

また、境内に点在設置してある石は創建時の観音像の台座として用いられていたものです。

観音さまは「観世音菩薩」あるいは「観自在菩薩」と呼ばれ、
駒込大観音は、十一面観音の名のとおり時に応じたさまざまなお顔で私たちに接し、
苦しみ、悩み、悲しみ、怒り、願い、喜びなどをもつあらゆる境遇の人に、
宇宙の根源的な生命力を自覚させてくださる菩薩です。

お参りされるときは「南無大慈大悲観世音菩薩」または
「オンマカキャロニキャンソワカ」と唱え、
観音さまを鑑として自己を見つめなおされるようおすすめいたします。

ここに、駒込大観音を再興するにあたって
浄財を寄進してくださった方々のお名前を記しておきます。(境内掲示より)


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四万六千日 ほおずき千成り市

2017年07月09日 | お出かけ
光源寺駒込大観音のほおずき千成り市

◆観音様のご利益を四万六千日分いただける縁日◆

ほおずき・風鈴はもちろん、手づくりのうちわ、
小物、アメ細工、花シャボン玉、肩もみ屋、おいしい屋台、
ライブ演奏などがぎっしり集まる幻想的な楽しい市です。

平成29年7月9日10日共に14時から 
光源寺 東京都文京区向丘2-38-22 電話03-3821-1188



縁日の起源は浅草浅草寺のほおずき市と同じで、
この縁日の期間にお参りすると四万六千日分(≒126年!)の
御利益を得られるというありがたい日によるものです。

江戸時代から続いた縁日でしたが、
地域の子供の減少等の理由から一時は完全に途絶えてしまいました。
2000年に地域の方を中心とした手作りの縁日として生まれ変わり、
今年で17年になります。

コンセプトづくりから始まり食べ物の出店では何を出すか、
出店の配置を考えたりといった下準備の段階も、
当日のテント立てまでそれこそ全部が手づくりです。
※東洋大学ボランティアセンターの方々、
 運営全般のお手伝いご苦労様です。そして有難う!ございます。

はじめはほおずき屋一軒だった縁日も現在では、
ジャズや尺八などのバンド演奏のステージを中心に広がる出店を
おいしいものをつまみながらぶらぶら回る、昭和ロマンのような雰囲気の空間です。

ぜひ楽しんで下さい。

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