魚鳥木、申すか?申さぬか?

ぎょ・ちょう・もく、申すか?申さぬか?
申す!申す! 魚⇒ニシキゴイ。鳥⇒ニホンキジ。木⇒制定無し、花は桜と菊

神葬祭の死生観と葬祭史②

2017年08月11日 | 民俗学探究
神葬祭の死生観と葬祭史① からの続き



神葬祭の葬儀史
日本の古い葬儀の様式は神話の世界に登場し、
古事記の中の天若日子(アメノワカヒコ)の葬儀のくだりに見られ、
神葬祭の源流がここにあると言えるが、神道における葬儀形態である
「神葬祭」が明らかになったのは、
江戸時代中期頃の国学者・儒学者達の研究からである。

江戸時代は徳川幕府の宗教政策の一つである「寺請制度(檀家制度)」により、
徳川光圀(黄門さま)でさえ神葬祭を望んだにもかかわらず実現には至らなかった。

それは、「寺請制度(檀家制度)」を幕府は宗教問題としてよりも
民衆支配体制の問題としてとらえていた為である。

しかし、寺社制度などに基づく仏教式葬祭に対し、
日本古来の信仰に基づいた葬祭を求める運動(神葬祭運動)が起こり、
その結果、1785年に幕府は「吉田家(吉田神道)から葬祭免許状を得られたならば
神職当人および嫡子に限って寺院の宗門を離れて神葬祭をしてよいが、
その他の家族は宗門を離れてはいけない」と言う判断を示し、
明治維新まで続いたのである。

1967(慶応3)年「王政復古」の大号令が下り、
1868(明治1)年には、「神仏分離令」が出され、
神職の家族にも神葬祭が許可された。

これを受けて、1870(明治3)年以降、続々と神葬祭を願い出る動きが出て、
神職家族のみならず一般にまで許可されるようになったのである。

翌1871(明治4)年には戸籍法が改正され、
正式に「寺請制度(檀家制度)」の法的根拠が廃絶されることになった。

従来は神葬祭といっても神職は葬祭儀礼にタッチしないのが建前であったが、
1872(明治5)年に自葬禁止の布告が出され、僧侶や神職によらない
個人で行う葬儀を禁止されたことにより、「葬儀は一切神官僧侶に依頼すべし」とされ、
この布告により、神職は氏子に対して自由に葬祭を営むことの根拠を得たのである。

また、自葬禁止の布告の同年に、寺は墓地が有っても神葬祭用の墓地が無いという事で、
神葬祭墓地として東京市営墓地(青山墓地、谷中墓地、染井墓地)が開設されたのである。

この後、明治政府は国家神道を進めていく上で、神社は宗教ではないとの立場をとり、
1882(明治15)年には、官幣社・国弊社の宮司が神葬祭に関与する事を禁止し
府県社以下の神職だけが神葬祭を執り行うこととなった。

神葬祭の完全なる自由化は、第二次世界大戦の終了後からなのである。

神葬祭の死生観と葬祭史③ へ続く


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