雑学的好奇心に満ちたツーリングレポート

好奇心から調べたネタや、ルートやスポット・ランチを紹介します。
関わっているクラブの告知やツーレポも投稿します。

2020年最後のマスツーリングと戦国の悲恋・信忠と松姫

2020-12-24 20:59:40 | ツーリング

12月13日(日)に所属している「HARD & GENTLE ツーリングクラブ」の今年最後の定例ツーリングが開催されました。

私も楽しみにしていたのですが、前々日に急用が入ってしまい残念ながら参加できませんでした(T_T)
ですが、当日走ったルートは、猿橋以外ほぼ行ったことがあるので、当日走ったであろうルートを紹介します。

参考までに、参加したメンバーさんたちに大好評だった当日のルート(事前発表段階)は下記の通りです。

圏央道厚木PA 9:30集合、中央道藤野PA第二集合。
上野原インター下車~県道521号~県道522号~県道18号~道の駅「こすげ」昼食
松姫トンネル~国道139号~「猿橋」観光休憩
県道513号~県道30号~中央道談合坂スマートインター第一次解散~上野原にて酒饅頭
県道35号~県道517号~県道76号~国道413号(道志みち)~宮ヶ瀬解散。(鳥井原園地)解散。

参加台数は19台(今年最多でした)。
適度なワインディングがあり観光スポットのチョイスも適切で、参加メンバーさんたちのラインへの投稿で楽しかったツーリングの様子を知ることが出来ました。

当初、昼食は「そば処花の里」の予定でしたが、コロナ禍の影響か日曜日の営業はしていないということで、道の駅「こすげ」の源流レストランに変更したそうです。
参考までに「そば処花の里」も紹介しておきます。

・花の里は2016年7月のH&G定例ツーリングでも訪問しました。
上野原市の西原地区には蕎麦を栽培する農家があり、それを水車で挽いて手打ちにした地粉100%の美味しい蕎麦を食べさせてくれるお店です。
「こんなところにお蕎麦屋さんがあるんだ」という県道18号沿いにお店はあります。
下の写真は2016年7月の時のものです。




・道の駅こすげ
小菅村は多摩川の源流部にあたる清らかな水が自慢の山里です。

「源流レストラン」「物産館」「ふれあい館」があり、「源流レストラン」では石窯で焼くピザをはじめとした山の幸、川の幸を使ったお食事、「物産館」では地元の特産品の販売、「ふれあい館」では展示や体験コーナー、情報発信を行っています。
一度、源流レストランでピザやパスタを食べたことがありますが、とても美味しかったです。
http://kosuge-eki.jp/



・松姫峠・松姫トンネル
かつては国道139号が(旧道)がこの峠(1,250m)を通っていました。
急峻な地形ゆえに、狭隘な1車線区間が多くヘアピンカーブが連続する道です。
私が初めてこの峠を走ったのは奥多摩からの帰路、地図を見て都留方面に抜けるのに近そうだと、軽い気持ちで走り始めて、ちょっと後悔するほどの手応えのある峠道でした。
リトライする機会を摸索しているうちに、この峠を貫く松姫トンネル(3066m)が完成、トンネルを含めた松姫バイパス(総延長3800m)が供用開始されました。
その後は旧道の大月側のバイパス分岐点から松姫峠間が通行の危険があるため通行止めとなっています。
再開通時期は不明らしく、峠を走り抜ける機会を失ってしまいました。

峠の名称の由来となった松姫は、武田信玄の五女だそうです。
武田家の滅亡時に織田軍に追われて、信州伊那の高遠城から八王子への逃避行で、松姫が越えたことから松姫峠の名がついたそうです。
道中幾多の険しい峠がある中、この峠に松姫の名がついたのは、ひときわ険しい峠だったからでしょうか。
ブログの最後に松姫の悲恋物語を書いてあります。

・猿橋
猿橋は山梨県大月市の桂川の深く美しい渓谷に架かる橋です。
「岩国の錦帯橋」「木曽の棧(かけはし)」と並ぶ日本三奇橋のひとつで、安藤広重の「甲陽猿橋之図」や十返舎一九の「諸国道中金之草鞋」などにその珍しい構造が描かれています。
長さ30.9m、幅3.3m、高さ31mのその姿は、橋脚を全く使わない特殊なもので、鋭くそびえたつ両岸から張り出した四層のはねぎによって支えられています。
猿橋の珍しい構造の起源は定かではないですが、西暦600年ごろに百済からやって来た造園博士の志羅呼(シラコ)がなかなかうまくいかず難航していた橋の建設の最中に、沢山の猿がつながりあって対岸へと渡っていく姿からヒントを得、ついに橋を架けるのに成功したと言われているそうです。
猿橋の名前の由来もそんなところからつけられたそうです。
下の写真は今回のツーリングに参加したメンバーさんが投稿したものを借用しました。

※当日は予定を変更して、桔梗屋上野原店でソフトクリームを食べ寄らなかったようですが、こちらも参考までに。

・上野原の酒饅頭
H&Gリーダーお気に入りなので時々寄りますが、上野原市のソウルフードとされ、炊いた米と米麹を合わせて一晩発酵させたものを生地に練りこんで作る「酒饅頭」です。
市内には酒饅頭の専門店が10店舗ほどあるそうですが、「永井酒饅頭店」はそのなかでもっとも歴史のあるお店です。

以下はオマケで、ツーリングブログ的歴史秘話ヒストリアです。

・戦国のロミオとジュリエット、信忠と松姫の悲恋物語

1558年、領国を隣接する武田信玄と織田信長は同盟を結びます。
信玄の世子・勝頼の正室には信長の養女で遠山氏の娘を迎えていたのですが、勝頼の正室が亡くなったため武田・織田同盟の補強として、1567年に信玄の五女(四女または六女ともいわれる)松姫(7歳)と信長の嫡男・信忠(11歳)との婚約が成立しました。

松姫の輿入れにはまだ幼すぎるため、2人の成長を待って婚儀を執り行なうことに。
信長は信忠に対し、贈り物や手紙をまめに松姫へ贈るように指示したそうです。
こうして信忠と松姫の間で文通がはじまり、政略結婚という形ではありましたが、お互いにまだ見ぬ結婚相手に対して想いを募らせ、愛を育んでいきました。

しかし、1572年に信玄が三河・遠江方面への大規模な侵攻作戦を開始すると、織田氏の同盟国である三河国の徳川家康との間で三方ヶ原の戦いが起こります。
家康と同盟関係にあった信長は家康に援軍を送ったので、武田・織田の同盟は手切れとなってしまいます。
松姫は12歳となり、いよいよ輿入れも間近に迫った頃でしたが、文通を通してお互いに想いを寄せ合っていた松姫と信忠の婚約は破棄されてしまいました。

1573年に松姫の父信玄が亡くなると、勝頼が家督を相続。
1575年の長篠の戦いにおいて武田軍が織田軍に惨敗すると、松姫は兄の仁科盛信を頼り信濃国の高遠城に身を寄せました。

時は移り、1582年に織田家は総大将を信忠として武田家への総攻撃に入ります。
松姫が身を寄せていた高遠城も包囲され、攻撃を受けることとなりましたが、松姫は仁科盛信によって当時4歳であった彼の娘や従者と共に甲州へ避難させられていました。

松姫が逃亡している間に兄の盛信は高遠城において、勝頼は新府城から天目山へ逃れて共に自刃し、武田一族は滅亡します。
松姫にとって、想いを寄せ合っていた、かつての婚約者が一族の仇となってしまったのです。

幼い姫達を連れた22歳の松姫は、縁を頼り八王子の「金照庵」にたどり着きました。

金照庵での滞在中、甲斐源氏の血筋で戦国最強と謳われた信玄を父に持ち、まだ若く美しい松姫には数々の縁談がありましたが、松姫はすべて辞退しました。

信忠も松姫のことを忘れず正室を持たず、その生存を信じて行方を探していました。
そして松姫が八王子に逃げ延びて生活していることを突き止め、「正室に迎えたい」とする文を持たせた迎えの死者を送りました。
武田家を滅亡に追いやった張本人とも言える信忠ですが、松姫はこの申し出を受けて10年越しに信忠に輿入れをするため信忠が滞在する京都へ向かいました。

遂に二人の純愛が成就するかに見えました。
しかし何という運命の皮肉か、婚儀に向かう松姫の道中に届いたのは、本能寺の変が勃発し信忠は二条御所で明智光秀を迎え討ち、自刃したとの知らせでした。
松姫の悲嘆は想像に余りあるものだったでしょう。

八王子に戻った松姫は出家して法号を信松尼と称しました。
信忠を想い生涯未婚のままだった信松尼は、尼としての生活の傍ら糸を紬ぎ絹を織ったりして織物の技を里人に伝えました。
また近隣の子供達に手習いを教え、土地の人々から慕われて平和な日々を送りました。
この時に伝えた織物が、後世八王子織物として発展していくこととなったそうです。
彼女を慕う多くの人に見守られる中、波乱に満ちた56歳の生涯を閉じました。

信松尼が住んでいた草庵は現在の信松院です。


2020/12/12

2020-12-12 17:21:49 | ツーリング



2020/12/07

2020-12-07 10:45:49 | 日記



西伊豆「大瀬崎・井田・戸田」編 PART2

2020-12-07 01:42:53 | ツーリング

口野放水路から平坦な海沿いを走ってきた県道17号は、大瀬崎を過ぎると表情をガラリと変え、アップダウンとカーブが連続する道となり、戸田の街を経由して山が海に迫る海岸線を縫うように南に向かい土肥に至ります。
西伊豆で陸路が整備されたのは昭和40年代だそうです。
それまではすべて海路で沼津や土肥へ出かけていったと言われている陸の孤島なような集落が多かったのだとか。

戸田までの道沿い、富士山のビュースポットに名前がつけられた駐車場や展望台が整備されています。
その一つで、太陽の位置によっては、海面がキラキラと煌めいて見えるため命名された「煌めきの丘」は、正面に富士山を臨み、駿河湾に沈みゆく夕日も絶景です。
そして大瀬崎と戸田の中間に位置する井田の集落を見下ろすことができます。

井田の集落ですが、砂嘴という地形が共通する地形があると紹介したのですが、地図を見ても砂嘴と思えるような岬はありません。
どういうことかというと、井田の集落のある平坦な場所ですが、かつては入り江だったそうです。
入り江の南側から伸びた砂嘴の岬が、遂に入り江の北側に達して入り江を海から切り離しまったのです。
まるで、自然が作り出した天然の干拓地ですね。
井田には海から50mほどしか離れていない場所に明神池という周囲が650mほどの池がありますが、入り江だった頃の名残なのだそうです。

小学生の頃、夏の家族旅行で井田の民宿に泊まったことがあり、浮き輪をもって海に行ったら砂利浜で、子供心に海水浴イコール砂浜のイメージだったこともあって、ちょっとがっかりした記憶があります。
しかしながら、この井田地区は「第10回美しい日本の村景観コンテスト」で「全国農業協同組合中央会会長賞」を受賞したこともあり、西伊豆の残された自然の景観があって、心癒される静かな集落です。

さて、県道17号に戻って南下を続けると、次は「出逢い岬」という、天然の良港・戸田港とそれをゆるやかに包む御浜岬、広大な駿河湾の向こうに見える富士山を一望できる人気のビューポイントがあります。

帰ってから調べて知ったのですが、モニュメントの輪から富士山が覗けるというユニークな仕掛けになっていたようです。

上は出逢い岬からの富士山。下は西伊豆スカイライン「戸田」駐車場から見た戸田・御浜岬。
見事に形成された砂嘴がわかりますね。

ここから坂を下っていくと、世界最大の現生節足動物であるタカアシガニが名物であり、橘の日本最大の自生地でもある戸田に到着です。
天然の良港である戸田には新鮮な魚介類を食べさせてくれる食堂がたくさんあります。

免許を取ったばかりの学生の頃からドライブでこの方面を通ると、よく寄らせていただいてるのは「の一食堂」さん。
元々、魚屋さんだったという話も聞いたことがありますが、漁船から直接切仕入れて安く新鮮な料理を提供してくれます。
買い付けたタカアシガニは、自前の生け簀で元気にしてから料理に出し、抱卵したタカアシガニは海に直接つながった珍しい自然のイケスで産卵させて海に返しているのだそうです。
http://www10.plala.or.jp/noichi/


戸田で他に食事をさせていただいた事があるのは「魚清」さん。
店内の1階には生け簀があって、生け簀の中を動き回るタカアシガニを間近に見ることができ、注文を受けてから生け簀内のタカアシガニを調理するので、常に新鮮なタカアシガニを味わうことが出来ますし、他の新鮮な地魚も存分に味わえます。
http://sakanayauosei.jp/shopinfo/

少し変わったところでは、戸田で採れる新鮮な深海魚を提供する「魚重食堂」さん。
「げほう」や「めぎす」「めひかり」など耳慣れない名前が並んでいます。
見てくれはグロデスクな魚が多いですが、味は意外に美味しいかも。
その日の漁獲量によってメニューが大きく変わるそうです。
http://uoshige.server-shared.com/

戸田漁協直売所では、ひものやさざえ、駿河湾のえびや9~5月には、珍しい深海魚なども並んでいます。シーズンには高足ガニも手に入ります。
車で行くと、クーラーボックスを持参して魚介類を買ったり、漁協特製のイカの塩辛が好きで、よくおみやげに買って帰りました。

食事も美味しいですが、御浜岬からの景色も素晴らしいです。
天然の防波堤に守られた波静かな戸田港内。
そしてここでも駿河湾側には富士山や静岡の海岸線、遥か彼方には南アルプスの山々が遠望できます。

御浜岬の先端には、幕末に安政大地震の津波で海を失ったロシア人と、戸田の船大工の協力によって建造された日本初の本格的洋式帆船「ヘダ号」の造船資料や日露友好の歴史を紹介しています。
また、併設の駿河湾深海生物館では、沼津市戸田地区ならではの、深海魚について楽しく学べる展示を行っています。

この日は土肥を周って帰る予定でしたが、午前中の雨で雨宿りをして時間を使ってしまったので、戸田峠を越えて帰ることにしました。
アクセルを開けて駆け上がるのに手頃な標高差と勾配、コーナーが連続する楽しいワインディングです。
登り始めると、戸田の新田地区にある北山の棚田があります。
平成11年には「日本の棚田百選」にも認定されたそうで、石積みで作られた風情ある棚田です。

戸田峠手前には戸田の景色を見下ろす展望地が何箇所か設置されています。
そのうちの一つは「瞽女観音」が祀られた瞽女展望台。
かつて戸田から修善寺へ向かう途中に大雪に遭い、峠の途中で命を落とした三味線使いの盲目の女旅芸人の一行である3人の瞽女の冥福を祈る観音像が建てられています。
三味線を弾き、歌を歌って一夜を楽しませてくれた瞽女の哀れな亡骸を、雪が消えた後見つけた村人が懇ろに葬ったという瞽女の塚が今もあり、その後、旅人の無事を祈って瞽女観音が建てられたそうです。
美しい風景が、瞽女の悲しい物語を胸に響かせているような気持ちになります。

今回のブログは、2つに分けて長くならないようにしようと思っったのですが、結局長くなってしまいました。
最後まで長文にお付き合いいただいた方、ありがとうございました。


西伊豆「大瀬崎・井田・戸田」編 PART1

2020-12-06 15:23:03 | ツーリング

12月5日(日)は運営するツーリング部の活動予定日でしたが、皆さんそれぞれ都合が悪くなってしまい、マスツーリングは中止してソロでタイトルの場所を走ってきました。

中伊豆や西伊豆に向かうアクセスは、国道1号から箱根新道~伊豆縦貫道で道の駅・ゲートウェイ函南という自分的には最も定番のルートです。

伊豆縦貫道が開通して中伊豆や西伊豆へ行くのは、かなり便利になりました。
河津や下田方面も伊豆縦貫道から伊豆中央道を通るほうが熱海や伊東などの海岸線を走るより、速く着くことができます。

さて、ゲートウェイ函南を出発して、狩野川の「口野放水路」経由で海沿いに出ました。
トンネルを抜けると目の前に内浦地区の海が広がり、放水路の信号を左折すると、右手にはおにぎりのような形をした淡島が見えてきます。
下の写真は「伊豆の国パノラマパーク・葛城山(標高452m)」から見た淡島と沼津市街。

そのまま県道17号を走ると、まもなく内浦漁協直営食堂である「いけすや」が見えてきます。
アジの養殖池としては北限なのだそうですが、内浦漁協は日本一の生産出荷量を誇り、チームIKS(いけす)がお出迎え、とれたて抜群の鮮度でアジや養殖真鯛を食べさせてくれます。
日本一の活あじを食べる!内浦漁協直営いけすや (ikesuya.com)


神奈川県央からツーリングでランチを食べるには近すぎるのですが、所属ツーリングクラブでお昼を食べたときには、裾野市の「五竜の滝」に立ち寄ってから向かいました。
この他、御殿場市の「駒門風穴(こまかどかざあな」や清水町の「柿田川公園」などに立ち寄ってから行くと、時間的に丁度いいと思います。
五竜の滝や柿田川公園は、富士山の豊富な湧水を実感できるスポットです。

上は五竜の滝。下は夏でも涼しい駒門風穴。

県道17号を進むと、駿河湾を仕切ってつくられた水族館で海獣ショーやイルカショーを見ることができる「伊豆・三津シーパラダイス」を通り過ぎ、トンネルを一つ抜けると大瀬崎(おせざき)まで海岸線をトレースするアップダウンの少ない道が続きます。出入りの多い海岸線ですからバイクを気持ちよく走らせることができます。
そして右手には対岸の沼津から富士の海岸線が間近に見え、北には富士山や愛鷹山、北西には南アルプスが遠望できます。

上は県道17号、西浦付近。下は西浦から見た富士山と中央から左の白い部分が南アルプス。

このあたりはみかんの産地としても有名です。
西浦、内浦、静浦の三浦地区では、穏やかな気候と山の斜面を利用して、温州みかんを中心とした柑橘類が生産されています。
品種は「青島」及び「寿太郎」が中心で、特に寿太郎温州みかんは、沼津で生まれ育った純正沼津ブランドで、糖度も高く、濃い味わいで京浜方面を中心とした市場で高い評価を得ているそうです。

県道17号を西に向かって走っていくと、伊豆半島の北西端から北へ駿河湾に突き出した岬である大瀬崎に至ります。この大瀬崎から伊豆半島西海岸を南下すると、井田から戸田へ抜けるのですが、この3つのスポットには共通する砂嘴(さし)という地形が見られます。砂嘴とは沿岸流によって運ばれた岩や土砂が堆積して形成される嘴(くちばし) 形の地形です。
関東では東京湾に突き出た富津岬がそうです。

大瀬崎は684年に発生した白鳳地震で隆起してできた島が、砂嘴で陸とつながってできた岬で、ビャクシンの巨木が生い茂り、これに囲まれた神池という最長部の直径が100メートルほどの淡水池があります。
周囲を海に囲まれた池なのに淡水なので、伊豆の七不思議に数えられているとか。

流入する河川がないので水が綺麗、岬の内側は波が入らず穏やか、遠浅なので船を使わず海に入れることからダイビングスポットとして人気があるそうです。

~PART2へ続く