12月13日(日)に所属している「HARD & GENTLE ツーリングクラブ」の今年最後の定例ツーリングが開催されました。
私も楽しみにしていたのですが、前々日に急用が入ってしまい残念ながら参加できませんでした(T_T)
ですが、当日走ったルートは、猿橋以外ほぼ行ったことがあるので、当日走ったであろうルートを紹介します。
参考までに、参加したメンバーさんたちに大好評だった当日のルート(事前発表段階)は下記の通りです。
圏央道厚木PA 9:30集合、中央道藤野PA第二集合。
上野原インター下車~県道521号~県道522号~県道18号~道の駅「こすげ」昼食
松姫トンネル~国道139号~「猿橋」観光休憩
県道513号~県道30号~中央道談合坂スマートインター第一次解散~上野原にて酒饅頭
県道35号~県道517号~県道76号~国道413号(道志みち)~宮ヶ瀬解散。(鳥井原園地)解散。
参加台数は19台(今年最多でした)。
適度なワインディングがあり観光スポットのチョイスも適切で、参加メンバーさんたちのラインへの投稿で楽しかったツーリングの様子を知ることが出来ました。
当初、昼食は「そば処花の里」の予定でしたが、コロナ禍の影響か日曜日の営業はしていないということで、道の駅「こすげ」の源流レストランに変更したそうです。
参考までに「そば処花の里」も紹介しておきます。
・花の里は2016年7月のH&G定例ツーリングでも訪問しました。
上野原市の西原地区には蕎麦を栽培する農家があり、それを水車で挽いて手打ちにした地粉100%の美味しい蕎麦を食べさせてくれるお店です。
「こんなところにお蕎麦屋さんがあるんだ」という県道18号沿いにお店はあります。
下の写真は2016年7月の時のものです。
・道の駅こすげ
小菅村は多摩川の源流部にあたる清らかな水が自慢の山里です。
「源流レストラン」「物産館」「ふれあい館」があり、「源流レストラン」では石窯で焼くピザをはじめとした山の幸、川の幸を使ったお食事、「物産館」では地元の特産品の販売、「ふれあい館」では展示や体験コーナー、情報発信を行っています。
一度、源流レストランでピザやパスタを食べたことがありますが、とても美味しかったです。
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・松姫峠・松姫トンネル
かつては国道139号が(旧道)がこの峠(1,250m)を通っていました。
急峻な地形ゆえに、狭隘な1車線区間が多くヘアピンカーブが連続する道です。
私が初めてこの峠を走ったのは奥多摩からの帰路、地図を見て都留方面に抜けるのに近そうだと、軽い気持ちで走り始めて、ちょっと後悔するほどの手応えのある峠道でした。
リトライする機会を摸索しているうちに、この峠を貫く松姫トンネル(3066m)が完成、トンネルを含めた松姫バイパス(総延長3800m)が供用開始されました。
その後は旧道の大月側のバイパス分岐点から松姫峠間が通行の危険があるため通行止めとなっています。
再開通時期は不明らしく、峠を走り抜ける機会を失ってしまいました。
峠の名称の由来となった松姫は、武田信玄の五女だそうです。
武田家の滅亡時に織田軍に追われて、信州伊那の高遠城から八王子への逃避行で、松姫が越えたことから松姫峠の名がついたそうです。
道中幾多の険しい峠がある中、この峠に松姫の名がついたのは、ひときわ険しい峠だったからでしょうか。
ブログの最後に松姫の悲恋物語を書いてあります。
・猿橋
猿橋は山梨県大月市の桂川の深く美しい渓谷に架かる橋です。
「岩国の錦帯橋」「木曽の棧(かけはし)」と並ぶ日本三奇橋のひとつで、安藤広重の「甲陽猿橋之図」や十返舎一九の「諸国道中金之草鞋」などにその珍しい構造が描かれています。
長さ30.9m、幅3.3m、高さ31mのその姿は、橋脚を全く使わない特殊なもので、鋭くそびえたつ両岸から張り出した四層のはねぎによって支えられています。
猿橋の珍しい構造の起源は定かではないですが、西暦600年ごろに百済からやって来た造園博士の志羅呼(シラコ)がなかなかうまくいかず難航していた橋の建設の最中に、沢山の猿がつながりあって対岸へと渡っていく姿からヒントを得、ついに橋を架けるのに成功したと言われているそうです。
猿橋の名前の由来もそんなところからつけられたそうです。
下の写真は今回のツーリングに参加したメンバーさんが投稿したものを借用しました。
※当日は予定を変更して、桔梗屋上野原店でソフトクリームを食べ寄らなかったようですが、こちらも参考までに。
・上野原の酒饅頭
H&Gリーダーお気に入りなので時々寄りますが、上野原市のソウルフードとされ、炊いた米と米麹を合わせて一晩発酵させたものを生地に練りこんで作る「酒饅頭」です。
市内には酒饅頭の専門店が10店舗ほどあるそうですが、「永井酒饅頭店」はそのなかでもっとも歴史のあるお店です。
以下はオマケで、ツーリングブログ的歴史秘話ヒストリアです。
・戦国のロミオとジュリエット、信忠と松姫の悲恋物語
1558年、領国を隣接する武田信玄と織田信長は同盟を結びます。
信玄の世子・勝頼の正室には信長の養女で遠山氏の娘を迎えていたのですが、勝頼の正室が亡くなったため武田・織田同盟の補強として、1567年に信玄の五女(四女または六女ともいわれる)松姫(7歳)と信長の嫡男・信忠(11歳)との婚約が成立しました。
松姫の輿入れにはまだ幼すぎるため、2人の成長を待って婚儀を執り行なうことに。
信長は信忠に対し、贈り物や手紙をまめに松姫へ贈るように指示したそうです。
こうして信忠と松姫の間で文通がはじまり、政略結婚という形ではありましたが、お互いにまだ見ぬ結婚相手に対して想いを募らせ、愛を育んでいきました。
しかし、1572年に信玄が三河・遠江方面への大規模な侵攻作戦を開始すると、織田氏の同盟国である三河国の徳川家康との間で三方ヶ原の戦いが起こります。
家康と同盟関係にあった信長は家康に援軍を送ったので、武田・織田の同盟は手切れとなってしまいます。
松姫は12歳となり、いよいよ輿入れも間近に迫った頃でしたが、文通を通してお互いに想いを寄せ合っていた松姫と信忠の婚約は破棄されてしまいました。
1573年に松姫の父信玄が亡くなると、勝頼が家督を相続。
1575年の長篠の戦いにおいて武田軍が織田軍に惨敗すると、松姫は兄の仁科盛信を頼り信濃国の高遠城に身を寄せました。
時は移り、1582年に織田家は総大将を信忠として武田家への総攻撃に入ります。
松姫が身を寄せていた高遠城も包囲され、攻撃を受けることとなりましたが、松姫は仁科盛信によって当時4歳であった彼の娘や従者と共に甲州へ避難させられていました。
松姫が逃亡している間に兄の盛信は高遠城において、勝頼は新府城から天目山へ逃れて共に自刃し、武田一族は滅亡します。
松姫にとって、想いを寄せ合っていた、かつての婚約者が一族の仇となってしまったのです。
幼い姫達を連れた22歳の松姫は、縁を頼り八王子の「金照庵」にたどり着きました。
金照庵での滞在中、甲斐源氏の血筋で戦国最強と謳われた信玄を父に持ち、まだ若く美しい松姫には数々の縁談がありましたが、松姫はすべて辞退しました。
信忠も松姫のことを忘れず正室を持たず、その生存を信じて行方を探していました。
そして松姫が八王子に逃げ延びて生活していることを突き止め、「正室に迎えたい」とする文を持たせた迎えの死者を送りました。
武田家を滅亡に追いやった張本人とも言える信忠ですが、松姫はこの申し出を受けて10年越しに信忠に輿入れをするため信忠が滞在する京都へ向かいました。
遂に二人の純愛が成就するかに見えました。
しかし何という運命の皮肉か、婚儀に向かう松姫の道中に届いたのは、本能寺の変が勃発し信忠は二条御所で明智光秀を迎え討ち、自刃したとの知らせでした。
松姫の悲嘆は想像に余りあるものだったでしょう。
八王子に戻った松姫は出家して法号を信松尼と称しました。
信忠を想い生涯未婚のままだった信松尼は、尼としての生活の傍ら糸を紬ぎ絹を織ったりして織物の技を里人に伝えました。
また近隣の子供達に手習いを教え、土地の人々から慕われて平和な日々を送りました。
この時に伝えた織物が、後世八王子織物として発展していくこととなったそうです。
彼女を慕う多くの人に見守られる中、波乱に満ちた56歳の生涯を閉じました。
信松尼が住んでいた草庵は現在の信松院です。