2008.4.12日曜日の番組 NHK総合 ぐるっと日本
ドキュメント沖縄――チェ チュンさんの手記(沖縄の戦争直後の映像)
チェチェンさんは、終戦直後の沖縄で不発弾の処理に従事する中、住民の様子を映像フィルムに記録した。
■ 映像記録の一部
・ 牛で田を耕す人
・ 子豚を天秤棒で担ぐ人
・ 広場で砂糖キビを絞る人
・ 海岸で製塩する人
・ 杵で餅、もしかして蘇鉄の実?をつく女性
・ 子どもをオブッタ少女
・ タライで洗濯する少女
どれも、生き生きとした屈託の無い笑顔
■ 伊波集落での祭りで、仮設の舞台で落下傘の生地で作った衣装を着て踊る人々、芝居に興じる人々、
「チェンさんも芝居に見とれた。」と記述している。
■ 収容所から出て、規格家(キカクヤー)に移る人々、米軍の指導で作らせた住宅なのだろうか?
■ コメント
・奥さんのコメント
沖縄の女性は働きすぎて、早く年を取っている。アメリカの人はコンナニハ働かない。
・ 不発弾
不発弾がゴロゴロ、放置された未使用の弾薬、爆発事故で多くの人が死亡、手足を失った。
・ 明るい人々
抗うことなく、毎日の生活を送る人々
・手記の最後のコメント
私たちは、沖縄を去る。小さな島々、優しく、たくましく生きる人々の思い出を胸
に。
■ 最近の伊波での映写会の模様
昔の自分が写ってないか、楽しみと話す年配の女性、カラーで撮影されたフイルムも
ある。
■ 貸し出し
NPO団体による貸し出しが受けられる。とのこと
■ 終戦間際~戦後の与論
・ 母が言うには、
敗戦間際には、グラマンの機銃掃射で民家消失、茅葺ではひとたまりもない。昼間の農作業もママならず。夜間、プルプルと弱弱しい音で南下していく飛行機は、特攻機、島に墜落した飛行機もある。と話す。
・ 知ったかぶりコメント
なぜ与論には上陸しなかったのか?――島の周囲を珊瑚が囲んでおり、上陸用の舟艇が乗り上げてしまう。
――島が小さく利用価値がない。など
終戦前には、島の周囲を軍艦が囲んでいた。とのことから、終戦が遅れたら上陸もあったかも、
■ 昭和30年ごろの思い出
・ 不発弾
不発弾をたたいて失明した人も
・ 落下傘
昭和33年ごろ、ピシパナ(環礁)に流れ着いた米軍の無人飛行機を漁に出ていた親父等が見つけて引き上げてきた。計器類は取り外して裏の林に捨てて、ジュラルミンの機体は、地金屋に数百円で売っていた。
落下傘は、稲刈りのときテントを張って休息のときの日よけ、雨よけで活躍した。落下傘のひもは、非常に丈夫なものであった。ワイヤより強いといわれていた。
・ 製糖
近所の数軒が共同して牛の力で絞る方式から、小規模の工場にトラックで運搬し集積、デイゼルエンジンの動力で絞る方式になる。燃料にはススキを多用
・ 鉱山
小高い丘には、リン鉱石の採掘後が点在する。大昔に海鳥の糞が積もったものであることから、当時は島の周辺に大変な数の海鳥と、それを支えるだけの小魚がいたと思われる。沖永良部にも鉱山はあるのだろうか?
・ 井戸
地下水の井戸は、水脈の関係か、家から離れたところに掘られており、また十数メートルは掘らないと水が出ないことから、比較的裕福な家でないと地下水の井戸はなかつた。
各戸毎家の近所に、ため水の井戸を掘ってあり、これに水がある間はこの水を使っていたが、ため水があるときでも、スイカを冷やす等で地下水の井戸まで水を汲みにいくこともあった。
・ お金
一円札が流通していた。五円玉を持ってお菓子を買いに。子どもの頃、家の横の林で寛永通宝を拾う。
その寛永通宝を先日、引き出しの中から偶然発見、与論でも江戸時代以前に貨幣が流通していたのか?ネットで調べると明治の初期までは流通していた。とのこと
・ 作物
当然であるが、田んぼにはコメを植えていた。カボチャの栽培が奨励され、二毛作には南瓜を植えるようになっていった。田んぼや池には、フナやドジョウがいた。
牛耕→耕運機→トラックター
ブルトーザーの活躍で農地整備、大蛇の住む森、大うなぎの住む池ももうない。
今では、田んぼや池にもサトウキビや牧草が茂り高麗雉の鳴き声が聞こえてくる。
ドキュメント沖縄――チェ チュンさんの手記(沖縄の戦争直後の映像)
チェチェンさんは、終戦直後の沖縄で不発弾の処理に従事する中、住民の様子を映像フィルムに記録した。
■ 映像記録の一部
・ 牛で田を耕す人
・ 子豚を天秤棒で担ぐ人
・ 広場で砂糖キビを絞る人
・ 海岸で製塩する人
・ 杵で餅、もしかして蘇鉄の実?をつく女性
・ 子どもをオブッタ少女
・ タライで洗濯する少女
どれも、生き生きとした屈託の無い笑顔
■ 伊波集落での祭りで、仮設の舞台で落下傘の生地で作った衣装を着て踊る人々、芝居に興じる人々、
「チェンさんも芝居に見とれた。」と記述している。
■ 収容所から出て、規格家(キカクヤー)に移る人々、米軍の指導で作らせた住宅なのだろうか?
■ コメント
・奥さんのコメント
沖縄の女性は働きすぎて、早く年を取っている。アメリカの人はコンナニハ働かない。
・ 不発弾
不発弾がゴロゴロ、放置された未使用の弾薬、爆発事故で多くの人が死亡、手足を失った。
・ 明るい人々
抗うことなく、毎日の生活を送る人々
・手記の最後のコメント
私たちは、沖縄を去る。小さな島々、優しく、たくましく生きる人々の思い出を胸
に。
■ 最近の伊波での映写会の模様
昔の自分が写ってないか、楽しみと話す年配の女性、カラーで撮影されたフイルムも
ある。
■ 貸し出し
NPO団体による貸し出しが受けられる。とのこと
■ 終戦間際~戦後の与論
・ 母が言うには、
敗戦間際には、グラマンの機銃掃射で民家消失、茅葺ではひとたまりもない。昼間の農作業もママならず。夜間、プルプルと弱弱しい音で南下していく飛行機は、特攻機、島に墜落した飛行機もある。と話す。
・ 知ったかぶりコメント
なぜ与論には上陸しなかったのか?――島の周囲を珊瑚が囲んでおり、上陸用の舟艇が乗り上げてしまう。
――島が小さく利用価値がない。など
終戦前には、島の周囲を軍艦が囲んでいた。とのことから、終戦が遅れたら上陸もあったかも、
■ 昭和30年ごろの思い出
・ 不発弾
不発弾をたたいて失明した人も
・ 落下傘
昭和33年ごろ、ピシパナ(環礁)に流れ着いた米軍の無人飛行機を漁に出ていた親父等が見つけて引き上げてきた。計器類は取り外して裏の林に捨てて、ジュラルミンの機体は、地金屋に数百円で売っていた。
落下傘は、稲刈りのときテントを張って休息のときの日よけ、雨よけで活躍した。落下傘のひもは、非常に丈夫なものであった。ワイヤより強いといわれていた。
・ 製糖
近所の数軒が共同して牛の力で絞る方式から、小規模の工場にトラックで運搬し集積、デイゼルエンジンの動力で絞る方式になる。燃料にはススキを多用
・ 鉱山
小高い丘には、リン鉱石の採掘後が点在する。大昔に海鳥の糞が積もったものであることから、当時は島の周辺に大変な数の海鳥と、それを支えるだけの小魚がいたと思われる。沖永良部にも鉱山はあるのだろうか?
・ 井戸
地下水の井戸は、水脈の関係か、家から離れたところに掘られており、また十数メートルは掘らないと水が出ないことから、比較的裕福な家でないと地下水の井戸はなかつた。
各戸毎家の近所に、ため水の井戸を掘ってあり、これに水がある間はこの水を使っていたが、ため水があるときでも、スイカを冷やす等で地下水の井戸まで水を汲みにいくこともあった。
・ お金
一円札が流通していた。五円玉を持ってお菓子を買いに。子どもの頃、家の横の林で寛永通宝を拾う。
その寛永通宝を先日、引き出しの中から偶然発見、与論でも江戸時代以前に貨幣が流通していたのか?ネットで調べると明治の初期までは流通していた。とのこと
・ 作物
当然であるが、田んぼにはコメを植えていた。カボチャの栽培が奨励され、二毛作には南瓜を植えるようになっていった。田んぼや池には、フナやドジョウがいた。
牛耕→耕運機→トラックター
ブルトーザーの活躍で農地整備、大蛇の住む森、大うなぎの住む池ももうない。
今では、田んぼや池にもサトウキビや牧草が茂り高麗雉の鳴き声が聞こえてくる。