ー なぜ家庭菜園をやってるの? ー
若気の至り、年寄りの冷や水。
11時頃、ウォーキングから帰るとすぐ、鎌と刈り払い機を持ち出して菜園の菊芋を刈った。たかだか2坪ほど。しかし、丈は2メートルを超えている。なんとか片づけたところで目が回りそうになった。この日の予想最高気温35度。あわてて冷房を効かせていた事務室へ逃げ込んで水を飲んだ。
ウォーキングに速足をはさんだのが応えたらしい。
閑話休題。
どうして菜園をやっているのか?と自分に問う。
食べるためと答える。定年後の 暇つぶしや趣味ではない。大真面目である。どんな非常時にもひもじい思いはしたくない。
ある雑誌社が終戦直後の国会議事堂前の様子を写した写真を提供してくれている。畑になっている(田舎ぐらし(24))。その写真は子供の頃、田舎の駅で見た光景を連想させた。大勢の人が米や野菜の買い出しのため、汽車のデッキにつかまったり、石炭車に乗っていた。
考えてみると、10年以上学校に通ったのも、40年間サラリーマンをやったのも、とどのつまりは食べるため。
そんなこと言うなら、学校は読み書きができる程度になったところでさっさと辞めて、畑に取りかかればよかったじゃないかと言われるかもしれない。あいにく中学生くらいではそこまでの分別がつかなかったまでのことである。
それにこの間、男もいろいろ、女もいろいろ、さまざまな役者が入れ替わり立ち代わり現れては悲喜こもごも芝居を演じてくれた。半世紀にわたる芝居見物と言ったら不謹慎になる。
ところで、先日夕飯の膳にはじめて切干ダイコンの煮つけが出た。“自分ちの畑で採れたダイコン”である。感動などという陳腐なことばでは言い尽くせない思いがじんわり胸の裡に広がる。
思えば、こちらへ越してきて家内とふたり、生い茂る茅を切り払い、絡み合った根を掘り起こし、それをふるいにかけて少しずつ畑を広げてきた。
畑ができると、こやしを入れ、畝をつくり、種を蒔いた。農薬は使わない。
そんな訳で、いささか大袈裟かもしれないが、膳には食べることだけじゃない、プラスアルファの重みやら喜びが乗っかっている。これが菜園をやるもう一つの理由である。
( 次回は ー なぜ家庭菜園をやってるの? ー )