― 孤 独 ―
ー終戦の日、戦地にあって未だ還らぬ御霊の一日も早いお帰りを祈ります。ー
電話が鳴った。
知り合いのご婦人からである。
話の途中、唐突に「あまり長く生きていたくない。」とおっしゃる。
80代。娘夫婦と三人暮らし。
なぜ?と聞くと、足腰が弱って出かける気にはならないし、その上家の中では娘夫婦との会話がほとんどない。
足腰はともかく、なぜ話をしないのと言うと、話が通じないという。なぜ通じないのと尋ねると一つには向こうが略したことばをやたらと使う。こちらはなんのことやらわからない。それで段々としゃべるのがいやになったとおっしゃる。
同感である。先日も国立科学博物館が始めた資金集めのニュースで “ クラファン ” という字幕が出ていた。クラウドファンディングの略らしい。日本人はよくカタカナ略語を使いたがるがそのほとんどがまず英米人には通じない。それといかにも軽薄である。およそ使う気にならない。
ところが、この種略語を使う側は相手に通じるかどうかまでは考えない。テレビニュースをつくる担当者はを観ている人の中には年寄りもいるかもしれないとは考えない。
なぜ考えないかといえば、想像力が働かないからである。なぜ想像力が働かないか。自分たちの子どもの時代と比べると、体験、つまり生身の人間とじかに接する機会が極端に少なくなっている日常がある。
昔、小学生や中学生のころ、授業が始まる前には入り口のドアの上にチョークの粉をたっぷり含ませた黒板拭きを挟んでおくのは日課だった。休み時間には必ず廊下で騎馬戦をやった。黒板に落書きをしてはしょっちゅう先生にげんこつをくらった。放課後は運動場に足で円を描き、すもうをとった。
いろんな他愛もない遊び、体験の中でこう言えば相手はこう思うとか、こうすれば相手にけがをさせてしまうということを覚えていった。
今の子は暇さえあれば、ポケットからスマホを取り出して身を虚像の世界に置くから、神経細胞はさっぱり進化しない。
たまに外出して、店先でいっとき想像力が欠落した人間と話をする分には我慢もできるが、これが同居人となると事は深刻になる。
最良の解決方法は子どもとの別居である。そもそもいい歳をした子ども、まして結婚した子どもが親と同居しているのは不自然である。
「そういえば、 “ 私の部屋は無人島 ” なんて広告を・・・」と言いかけたら、間髪を入れず、「何を言いたいかわかる」と返ってきた。