「拝啓前文御免。3日午前10時無事入隊しました。出発後身体も非常に良くなりました。ご安心下され。
班の招集兵の身の回りのことをあれこれお世話しています。朝鮮平壌隊に行くらしいです。6日以降に。まずはお知らせまで」
「大阪歩兵第8駢隊補充 第4中隊第5班」に入隊のようです
軍隊は所属がはっきりしていますね。現在と違い筆記による記録ですから、膨大な情報量を間違いなくこなす事務方もきちんとしていなければなりません
「拝啓前文御免。3日午前10時無事入隊しました。出発後身体も非常に良くなりました。ご安心下され。
班の招集兵の身の回りのことをあれこれお世話しています。朝鮮平壌隊に行くらしいです。6日以降に。まずはお知らせまで」
「大阪歩兵第8駢隊補充 第4中隊第5班」に入隊のようです
軍隊は所属がはっきりしていますね。現在と違い筆記による記録ですから、膨大な情報量を間違いなくこなす事務方もきちんとしていなければなりません
ロシア軍の侵攻が昨年の2月24日に始まり、まもなく1年を迎えます
プーチン大統領が年次教書演説を行うというまさに前日、アメリカのバイデン大統領がウクライナを訪れました
中村逸郎氏が今朝のラジオに出演され「バイデン氏が来たことを知って教書を書き直したが、気弱な演説になってしまいプーチン自身もこの戦争をどう終わらせるかわからないようです」と述べておられました
中村氏はロシアの友人とメールでやり取りしたり、ロシアのラジオ放送を聞いたり、かつては辺境の地を訪ねたりして「ロシア人気質」をよく理解している専門家だと言えます。
話しぶりは穏やかですが「ロシア人の言う事は信用してはいけません」という理由もなるほどと思わせることを語られます
故郷の島根での平和を願う公演をYouTubeで聞きました。いいお話でした。
おじいちゃんが中国北部へ(北支派遣)出征することになった背景の事件です
昭和12年(1937年)
7月7日 盧溝橋(ろこうきょう)事件勃発 (教科書の世界である)
11日 華北へ出兵することを決定 (これが北支派遣ということか)
28日 華北で総攻撃開始 (7月27日付 召集令状)
30日 天津爆撃 (8月3日 出征)
8月9日 上海で大山海軍中尉射殺される
15日 日中全面戦争開始 (8月18日 大阪出航 20日釜山上陸)
9月2日 北支事変を支那事変と改称 (8月24日 平壌到着)
現在はおおまかなくくりで一連を「日中戦争」としているようだ。
「支那事変が起きたので北支派遣となった」→「日中戦争が起きたので中国北部へ出兵した」
ちなみに中国中部への出兵は「中支派遣」、南部は「南支派遣」
昭和13年(1938年)
5月5日 国家総動員法施行
5月18日 おじいちゃん戦死
昭和16年に日米開戦だから、おじいちゃんは日中戦争の初期に戦死したことになる。
日本軍も攻勢だったから、ありがたいことに遺骨や遺品も中国から帰ってきたと考えられる。
さて、いよいよおじいちゃんの足跡をたどって行こうとおもいます。
おじいちゃんからの手紙、戦死したのち返されたふるさとからの便りが残されています。
召集令状が届いたのは昭和12年7月27日と、書かれていた文書を見た気がするのですが・・
出征は8月3日です。地区の公会堂でまず見送りがあり、村の見送りがありました。写真が残っています。
おばあちゃんはこの時臨月で見送りにはいかなかったとおばあちゃんの姪から聞きました。
そしてわずか3日後の8月6日に父を産んでいます。
6日には大阪で入隊を済ませていたので、顔を見ることも見せることもできませんでした。
今は写真はもちろん動画で鳴き声さえ聞くことが出来る時代です。
みんなの気持ちを思うと胸が痛いです。
昭和12年8月3日 村の出征見送り
同じ村の出征者と
渡部悦和氏によると、
ロシア軍はプーチンから3月までに東部ドンバス地方を征服せよと言われているが、バフムトはすでに5か月間征服できずにいる。
これは、ウクライナ軍の歴史に残る戦いになる。
バフムトのにワグネル軍は、薬を打ってから前線に追いやられ、死んだ仲間の兵士の上を歩いている。一日に800人死亡している。
クレミンナ正面にロシア軍が多いので今後の攻勢方向かもしれない。
ウクライナ軍の大攻勢は早くても4月末。そして、「AIRーLAND BATTLE」の戦いになるだろう。
つまり、①アメリカから射程距離150kmの爆弾GLSDSの供与が決まった
②ドイツがレオパルト2戦車の供与を了承した
③①、②を受けて戦闘機F-16がいずれ供与されるだろう
「空から、陸から一斉攻撃に出る」ということだ
①の爆弾について「150kmといったら、東京から軽井沢ですよ。そこへ1mの誤差で爆撃できるんです」とおっしゃいました。