2013/03/16
第5回てつがくカフェ@いわて 【ーみやこ編ー】
<テーマ>
『<喪失>の言葉/<和解>の言葉』
本州最東端に位置するここー岩手県宮古市。2年前、宮古市も広範囲に渡る甚大な被害を及ぼした千年に一度と言われる大災害―「東日本大震災」―そして大津波に襲われました。現代社会の象徴であるコンピューター、携帯などの情報技術、電気、ガス、水道などのライフライン、車、バス、電車などの便利な交通網に慣れ親しんだ私たちは、荒れ狂う大地のうねり、全てを呑み込む津波の脅威、その破壊力を目の当りにして全くなすすべがありませんでした。当時私たちはこうして「問う」自由さえ奪われた渦中の当時者でした。
あれから2年、皆さんはそれぞれの具体的な生活の中で、何に心を痛め、何に慰められ、何に憤りを感じ、何を諦め、何を見つけてきたのでしょうか。私たちは生き<残された>者であり、均等に与えられる時間という大きな流れの中にいます。絶対に回帰してこない者/物たちと向き合い、愕然とするしかなく、全身でそれを嘆き悼む時、言葉にならない激情が身体中を駆け巡ります。私たちが大事なものを喪失した時に話す言葉。その言葉を話す主体から<和解>の言葉を語る主体へと変わる(変えられる)時、喪失した物/者たちと<和解>へ歩み出るとき、何か違った祈りにも似た風景のようなものが見えてくるような気がします。
今回宮古市でのてつがくカフェのテーマ『<喪失>/<和解>』に込められたものは、決して失ったものを受け入れて、折り合いをつけよ、と強制しているのではありません。行方不明者という切実な問題、福島県住民の怒りや絶望、被災者の今後の不安な生活を考えると、そもそも和解どころではない、一生かけても受け入れ難い事態が生じています。無理に和解しないことが人生の本質でさえあるかもしれません。和解することの善悪や真偽を問うのではなく、「そもそも和解とは何か」、また「和解しようとする主体はどういう言葉で語るのか」、それを考えてみたいと思います。
言葉を失い、にも関わらず<再び>語り出すとき、何が起こるのでしょうか。内にある私的な言葉にならない感情に形を与え鋳直し続けること、そしてそれを差し出すこと、伝える言葉を獲得していくこと、争いの後に架ける言葉を探していくこと。和解という仕草は、何か、恋人‐親子関係のようなねっとりとした親密な関係から獲得される文法ではなく、そのような関係から一歩踏み込んで(出て)、何かちがう思考を促す性質を持っているような気がします。理解できない不条理な出来事に身も魂も引き裂かれて茫然と立ち尽くす時、それでも失ったものを、妥協でもなく、諦めでもない、祈りに近い和解(=海)への言葉にしていく行為とは・・・。
それを今回皆さんとこの宮古の地でカフェりながら語ろうと思います。
(文章:加賀谷昭子)
※第4回目は番外編ということで私(加賀谷)が希望していた宮古市で開催させていただきました。
ファシリテーターは、強い牽引力のある岩手のメンバーの八木晧平(岩手大学農学研究科兼音楽ライター)さんにお願いしました。