先日、ジェームス三木脚本、池田博穂監督の『渡されたバトン~さよなら原発』 を見てまいりました。
舞台は1968年夏、過疎化の進む人口3万人の新潟県巻町。出稼ぎ大工と行商で細々と食いつないできた、角海浜地区の地価が、なぜか値上がりし、その理由を「新潟日報」が北東(ほくとう)電力が原発建設を計画しているとスクープするところから始まる。
何十億もの協力金や補償金とそれに群がる推進派派、それに真向から反対するのは補償金を釣り上げることしか考えていない巻町漁協、純粋に放射能の不安から意義を唱える「五ケ浜を守る会」などの環境団体。
物語の中心家族で割烹旅館を経営している「五十嵐家」の中でも、父、3人の娘立場と彼女たちのパートナー(お寺の住職、検査技師、漁協)、役場勤務の息子の間でも推進派と反対派に分かれる。推進派の根拠はもちろん巨額の資金投下による巻町の経済活性であり、そこから不安を抑圧するような異様な圧力の「原発推進、原発安全」キャンペーンが繰り広げられる。
そこでは、象徴的な言葉が何度か語られる。「お国の政策だから従わないのは非国民」「お国が安全だというから」「事故が起こるか分からないのに反対するのは「被害妄想」などなど・・・・。推進派には「起こらない側」の方が正常な議論で、起こると考える方は「気違い」や「被害妄想」だと映る。
そんな時に1979年、スリーマイル島原発事故、1986年、チェルノブイリ原発事故が発生する。町民の意識は、原発への拒絶反応として劇的に変化する。
反対する人たちののそもそもの動機根拠は「原発」そのものの理解不足からくる不安。このまっとうな感覚を「非理性」「感性的」と切り捨てる推進派の思考。しかし推進派に非理性と揶揄されたこの感性的な不安や懐疑は当時明確な<言葉>を持っていなかったが、原発・放射能の勉強会、町民選挙や「折り鶴運動」など諸々の具体的な町民運動で、対立構造を逆転させ、最後には町民の勝ち取られた「理性」となっていく。
自身の論を阻害する諸要素や、起こりうる可能的な事態を「被害妄想」と思考停止し切り捨ててきた推進派の思考のほうが「被害妄想」であることが段々露呈していく過程が見物だった。何から大きく社会を変えるような、しかしながらまだ形となっていない<理性>の強力な運動は、既得権を持つ種類の理性に時として脅威的な非-理性や感性的なものと映る、そんな瞬間の蓄積された歴史を垣間見せてくれる、そして何よりも<フクシマ>へ想いを差し向ける、そんな映画でした。(加賀谷 昭子)
詳しくは以下のURLを参考に。
http://www.cinema-indies.co.jp/aozora3/index.php