てつがくカフェ@いわて

てつがくカフェ@いわてのブログです。

<外から>やってきた「問い」

2013-11-15 09:08:24 | レポート

前回の記事の<外>からやってくる「問い」ですが、これに応えようとしたある中学生たちの一例をご紹介いたします。

昨日(11月14日)NHKで、東日本大震災による津波で長男をなくされた浅沼ミキ子(岩手県陸前高田市)さんがその思いを絵本にした「ハナミズキのみち」を演劇化した、埼玉県の学生たち(三郷市彦糸中学)の活動をレポートした番組がありました。

脚本を担当した3年生の坪井聖璃菜さんは、最初に本を読んだ時に津波を知らない自分が書いていいのか悩んだそうです。彦糸中学校では2年前から震災をテーマにした舞台を制作しており、今年の6月から取り組んだのが「ハナミズキの道」でした。坪井さんは本を深く読み、仲間たちと議論を重ねながら脚本を書き上げていきます。

さらに、先生から紹介された、絵本の作者が震災直後から書き続けた手記を読み、作者の気持ちを分かろうとします。中学生たちのなかには、作者の過酷な経験を目の当たりにしてその思いを受け止めきれず、「やっぱり他人の気持ちはどんなに理解しようとしても分からない」、「表現するのが怖い」と意見は錯綜します。

作者の手記の中で最も衝撃を受けた、作者が息子と遺体安置所で再会するシーン(津波発生から10日後)を坪井さんは脚本に付け足します。そしてその遺体安置所のシーンで「帰ってきてくれてありがとう」という絵本にも手記にも無いセリフを作者・浅沼さんに<送る>のです。これは息子の死を懸命に受け止めようとする母親の気持ちを考えた末に、脚本の坪井さんから出た言葉でした。

坪井さんは、「どんなかたちでも<会いに来てくれたこと>、それを思うと<感謝>という言葉が出てきました」と言います。

この原本にはないシーンや、ことばを坪井さんが加えたのは作者や作品に対する<不誠実>でしょうか?

私にはそうは思えません。

今まで自分が直面したことのないこの被災者の苦しみ、哀しみの経験を、芸術として表現することに対する覚悟、それを自分に突き付けられ迫ってくる「問い」として必死に受け止め、この若い脚本家の魂はそれに震撼し鼓舞され、そのpassion(受苦・情熱)を自分固有の「ことば」や「シーン」というかたちで<表現>して作者に応えたのだと思います。<祈り>に近いような「ことば」で。

作者の苦しみ・痛みに「忠実」に寄り添う苦しい何ヶ月かを通して、彼女の魂は何かを「懐胎」し、作品には「不忠実」な仕方で逆説的に最大の「忠実さ」と「敬意」を作者に贈(送)ったのだと思います。

「・・(「語られた」言葉ではなく)、主体が語る」言葉とは能動的なものではない。それはすでに他者の言葉を聞いた(聴取)ということであり、全き受動的な他者への応答である」(E.Lévinas)

埼玉県の学生たち(三郷彦糸中学)の活動に陰ながら敬意を送ります。

坪井さん達は絵本の作者である淺沼ミキ子さんにビデオレターを送ったとき、浅沼さんは「まだまだ息子のことを思い出さない日は無いが、中学生たちが自分の絵本に関心を持ってくれたことが嬉しかった」と言います。作者の淺沼さんは上演後「泣いてしまったが、頑張れというパワーをもらった」と語っていました。

この絵本「ハナミズキのみち」はふるさとを愛し津波で亡くなった作者の息子の健さん(市職員。市民を避難誘導時に津波犠牲)が、大好きだったハナミズキを避難路の道しるべに植えてほしいと語る内容です。

そしてハナミズキには「私の思いを受けてください」「返礼」といった花言葉があるそうです。息子の健さんが毎年欠かさずプレゼントをくれた、母の日直前に咲く花でもあります。坪井さんはこの「ハナミズキ」の想いを確かに受けて祈るような気持ちで力強く「返礼」したのだと思います(加賀谷)。

※11月23日てつがくカフェ@いわてについて→こちら 

ちなみに明日から2泊3日で陸前高田・釜石(社会学のフィールドワーク)なので、申し込みのお返事が遅れたら申し訳ありません。

 

 

 

 


 2013/11/11

2013-11-11 11:11:19 | レポート

今日は東日本大震災から2年8か月目ということで、確実に始まっている震災の風化について報道されているようです。

先日のフィリピン・レイテ島の台風30号の被害を見て、そこに津波の映像を思い出した方もたくさんいらっしゃったのではないでしょうか?

岩手県宮古市田老地区、大槌町のことをレポートしていた記事があったのでご紹介いたします(加賀谷)。

岩手県宮古市田老地区→こちら

岩手県下閉伊郡大槌町→こちら

震災の風化と記憶化のその狭間で、田老観光ホテルの取り組みが紹介されていました→こちら

※次回11月23日のてつがくカフェ@いわてについては→こちら


第五回 てつがくカフェ@いわて レポート⑤

2013-07-16 11:48:27 | レポート



レポート⑤

ここで時間も押してきたので「最終総括的な問いはないか」とファシリテーターは議論の経路を絞り、まとめに入ります。最初の問題提起をしてくれた花巻市の男性が手を挙げ「ふるさと(=帰属意識)を選ぶ権利はないのか?」と問います。

そこで最初分けた共同体の二つの定義(※)に違う言葉を当てがうことで、違う角度から構造を探ります。共同体とは①受け身なもの(地縁・血縁)=非意志(不自由)②能動的なもの(選択的、利益、目的)=意志(自由)。

そこで第三の項というべき広告文での「<なんとなくの一体感>とは何か?」に問いをつなげていきます。①でも②でもない「一体感」とは何か?それは「目には見えない、説明できない、あいまいな<われわれ意識>といったものなのではないか?」と位置づけされている方がいました。

さらに「自己と他人は違うものなのに、なぜ考えや価値観が<似ている>などと推定することができるのか?」とさらに問いを鋭くしていきます。その方はご自身の答えを持っているわけではなく、それを会場に問うていて探っているように思えました。もしかしたら<われわれ>意識自体が、すでに共通の幻想を呼ぶような構造を持っていると言えるのかもしれません。

「価値」とはもともと経済用語で商品が交換されるときに相当する値うちです。商品が市場で交換されるためには、市場価格という相対的な尺度が必要ですから、商品にもともと価値(値段)があったのではなく、「交換」しうる(相当する)可能性があり、かつ実際に交換行為が遂行された後に「価値」が発生したと言えるかもしれません。それと同じように、人間同士の価値観の共有というのも等価ではありえず交換不可能なものを、<あたかも>交換できるかのように比較し計算しているといえないでしょうか。そこには疑似的、虚構的、共犯的なものがあって、しかしながらその<事実>は忘却しなければ物事は成り立たない、そういう危うさの中にいるのではないでしょうか?

問いは「地縁や血縁や利益といった縛りでない<純粋な>価値観でつながる排除なき共同体とはありえるのか?」「では排除的な効果の条件とはなにか?」ときわめて政治的な問題や、「この<なんとなくの一体感>を価値観と呼ぶなら<価値>とはなにか?」など問いは問いを呼んでいきます。あるひとつの問いが次の問いの前提を準備し、その次の問い自身もさらに次の問いの前提となっていく・・

この《that’sてつがく》とでもいった構造にファシリテーターは「てつがくカフェはいつもこの種の<気持ちわるさ>を抱えて終わざるを得ないのですが、みなさんどうぞこの<気持ち悪さ>を大事に次につなげてください」と会を閉めました。会場のみなさんは、やはり「気持ち悪い、すっきりしない」という方と、逆に「すっきりした」という人とそれぞれの思いが交錯し余韻を残したまま、第5回てつがくカフェ@いわては幕を閉じました。

参加してくださった皆さま、新しく入った強力なメンバー(藤原さん)含めスタッフの皆さま、ファシリテーターの房内さん、本当にありがとうございました。(加賀谷昭子)




業務連絡~

2013-07-16 00:08:31 | レポート

「つぶやき③」と「今日の1曲⑤」に貼ったリンクが機能してなかったので、やり直しておきました。

ご迷惑おかけいたしました。

(八木)


第5回てつがくカフェ@いわて レポート④

2013-07-15 10:40:01 | レポート

昨日はブログをお休みしてしまい、申し訳ありませんでした~。

では加賀谷さんによる、前回のてつがくカフェ@いわてのレポートです。

5回目となる次が、最終レポートです!

ではどうぞ。

 

このようなさまざまな思考の営みにファシリテーターは注意深く耳を傾けますが、議論は明らかに錯綜していて、ファシリテーターの進行の仕方自体に疑念を抱く参加者も出始めます。

「はじめに言葉の定義づけをすると個々が持っている多様な体験の豊富さを捨象してしまうのではないか?」、「個々の事例を具体的に考えていく中で(つまり帰納を徹底化していって)、その自然な過程の中で「共同体」という言葉をみんなで定義をしていった方がいいのではないか?」など。


皆さんの動揺や懐疑が、「結局<てつがく>とは具体的な事から離れた抽象的な机上の空論に過ぎず実践的に何の役にも立たない、一部の専門家の手元にある手軽な知的玩具のように思考を弄ぶようなもの」というところから来ているとしたら、その批判は真摯に受け止めなければならないし、そのような種類の精神的怠惰は常に警戒し常に自己批判をしていかなければならないと思いました。ただひとつ言えることは、次のような事です。個々の事例を分析していってさまざまな例を比較検討すれば「一般性」は引き出せるかもしれません。しかし個々の経験には限度があり、どれだけ人数を集めてデーターをとってもすべての経験や事例を網羅するのは不可能です。個々の経験の単なる集合からは引き出せないもの、かつ一般化とは違って個別性を排除しない抽象作業、それを「普遍」というならてつがくがすべき作業はそういうものなのかもしれません。


さて、このような収拾つかなくなり紛糾した事態に、ファシリテーターは今まで語られた用語群を丁寧に拾って整理し直し、キーワードを繋げながらそこから見えてくる「共同体」とは何かを再度根気強く問うていきます。

 


盛岡市の男性は、「欧米では教会のような個を超えた「価値観」を共有する共同体があるが、日本ではそれがないのではないか?人種も価値観も多様な西洋では教会が個を超えた普遍的な共同体の機能を提供する役割をしているのではないか?」と問題提起します。

それに対しある参加者は「価値観で結び付かない共同体は考えられない」と<共同体>と<連帯>を分けます。共同体は持続的で連続性があり、強制力を持っていて建造物のようで組織立っている。対して「連帯」は断続的で身軽。出たり入ったりが自由で共通の価値観でつながっている。

さらに価値観とは「幻想」なるものであって、かつそれを知っているんだけど、それがあたかも存在するかのように持っている<ふり>をしないと共同体はできない」と共同体に内在する一種の虚構性、突き詰めるとアポリアに陥る性質を指摘していました。ある種誤解で成り立っているこのような<連帯>が広告文にある<なんとなくの一体感>というのかもしれません。共同体として「集まる」ためには何か価値観、フィクション、幻想、物語を共有していることが前提で、それが共有、交換されているという事自体も幻想やフィクションなんだけれど、それを想定しないことには共同体は形成されない。この意見には共同体問題の核心があるような気がします。