「幸いなことよ」これは、常に神の私達に対する
御思いである。詩編の第一編も、これであり、主の山上における説教も、この御言葉によって始められている事は、意味がある。
神の恵み深い御思いを、わきまえながら、私達は
祝福の軌道に歩む為には、事情によって、種々の働きをする御言葉が与えられている。
私達の祈りも
「私の目を開いて下さい。私が、あなたの御教えの内にある奇しい事に、目を留めるようにして下さい。」(詩編119-18)である。
神の戒めには、奇しい宝が埋蔵されている。主は
「その聖書が、私について証言しているのです」
(ヨハネ5-39)と仰せられる。
私達は、御言葉の鉱脈を堀り当てて、生けるキリストに行かなければならない。そこに至るまでに
種々の教訓や、興味深い事もあるが、途中でそれらを、もて遊んではならない。聖書のどこから
分け入っても源泉(キリスト)に届かなければならない。それには、まず霊的開眼が必要である。
霊的な人とは、霊的思想の豊富な人ではなく、
生けるキリストの把握者を言う。これは、時をかけて、御言葉に親しむ事によってだけ得られる
霊的資質である。
(8月6日の文)